最初に確認して置きたいのは、『霊は存在する』と言う事です。

そうで無いと"生きている"と言う事の本質には辿り着く事は出来無いでしょう…。

霊能者として霊を身近に接して居られる立場から、I先生は霊を観る目は三つ有ると仰言って居られます。

先ず第一は、『霊は存在する』と言う事。

第二は『霊は分霊を発する』と言う事。

第三に『霊は界層に於いて生きている』と言う事。

現実に"生きている霊"と言うものの特質を斯様に述べて居られます。


ところで、『魂』とは本来何を意味する言葉なのでしょうか。

"魂"と言ったり、"霊"と言ったりする事から魂と霊は同じ事だと思っている方も多いのでは無いでしょうか…。

実は、《霊は神々と同じ命から生じた》と言う事を意味している言葉なのです。

我等も霊ですし、神々も霊です…と言う事は、我々も本質に於いては神である…そう言っているのですね。

今迄にも何度も述べて来ましたが、"宇宙は一つの生命体"であり、此の大宇宙を《玉》と表したのです。

『魂(たましい)』は古い表記では"たましひ"と成り、"し"は《滴(しずく)》とか《滴(したた)る》と言う事です。

そして"ひ"は漢字に直せば《霊(ひ)》と言う事です。

所謂、我々の肉体内部に在るのは、私を私として私たらしめていると言う《心》を形造っているのは『大宇宙·大生命(玉)から滴って来た霊』つまり『魂(たましひ)』であると言う訳です。

『魂」と言う言葉の中に鼻から、《人間は神の子であると言って居た》のです。

そう言う意味を含むのが『魂』と言う言葉だったのです。

"其れを自覚して神らしく行動して居たのが本来の日本人だった"と言う訳ですね。


日本の神話の中に伊邪那岐之大神様、伊邪那美之大神様が"天の沼鉾と言う鉾を賜りドロドロに成っていた地上を修理固成(つくりかためな)せ"と別天津神(ことあまつかみ)からお命じを戴く件(くだり)が有ります。《地上》とは《地球》の事です…。

神話の形態で語られているので、何も自然科学的に此の地上がドロドロで在ったか否かは一先ず措いて…此れは一つの考え方つまり哲学を神話の形態で捉えている面が有ると言う訳です。


つまり事実を哲学的に捉えて、後世に神話的姿で遺したと言う訳です。考え方だから神々も哲学の擬人化である…と早合点はしない様に願います。

神々が何億年と要して成した事実を哲学的に解り易く理解の及ぶ様に哲学化したのであって、佛教の佛や如来が哲学の擬人化であると言うのとは違います…。


此処に出て来る"天の沼矛(鉾)"は"天の玉矛"とも書かれますが、此の"玉"も"玉し霊(ひ)"の『玉』と同じく"宇宙は一大生命体"であると言う、"一大生命体"と言うのを敢えて『玉』と表現したのです。

何故"玉"と表現したのでしょう。

実は、精神統一をして観ると《人間の生命》と言うのは綺麗な満月の゙様に、輝く球体状に視えるのです…と言うか精神統一が進むと人間の心は輝く玉に成ると言った方が良いでしょうか。

否、人間に限らないのです…霊が精神統一した状態つまり見た目に於いて活動体で無い状態の時は《光る玉》に視えるのです。


"鳥居"と言うのは、笠木(かさぎ)の上に神に仕える鳥が、"止まり木に居る鳥"の様に居るからなのです…勿論次元がかなり高いので、視える人は少ない様ですが、普段は"光る玉"が笠木の上に浮いて居るだけなのですが、参拝者が鳥居の前で正式に頭を垂れて名前や参拝の目的等をきちんと挨拶して報告をすると、突然光玉が鳥と化して、天界の神の元へと参拝者の来た事を報告に行く訳です。

すると、押取り刀で神様が神社に降られると言う訳です。普段は神社には神様は滅多に居られないです…と言う事は、お使いの鳥が行かない限り、神様はお越しに成る事は無いと言う事です。

幾ら真面目に祈っても、最初の作法が間違って仕舞えば無神の神社で参拝する事に成るだけなのです…。

龍神さんも活動して居なければ光る玉にしか観えません。


ですから、人間の生命…魂と言うものも、実は精神統一をすると、輝く玉と成るのです。

但し、幽体は手も足も鼻や口も其の儘です。

霊体が精神統一をすると真ん丸に成って見えると言う事です。

《玉鉾》と言うのはつまり《魂の鉾》の事なのです。

《魂の鉾》とは、所謂『霊力』を指すと言う事です。"霊力を以て漂える陸地をこをろこをろと掻き回した"と…。


御神霊が霊力に関してこんな話をお教え下さりました…大本教の出口王仁三郎氏が、京都に在る織田信長公をお祀りする建勲神社に暫く神主として勤められて居た時の事ですが、他の神主が誤って鍵を中に入れた侭扉を閉めて仕舞ったそうなのです。

すると、出口王仁三郎氏は印を結んで精神統一をして、"霊力"を以てガチッと開けた…と言う記録が有ると言います。

霊力と言うものはそう言う事も可能なのですね。

《玉鉾》つまり"霊力で国生みをした"と神話は語っているのです。


"この世"に於いては、肉体に包まれて居ますし、明らかに三次元物質世界に存在して居る私達も、本質は主護霊から直接的に滴り落ちた意念…即ち《魂である霊》なのだけれど、霊能に秀でている訳でも無く、霊眼·幽眼を自由に開く事が出来無い身の上では、見えない世界も゙霊としての己れも、実感するのは中々の至難な事です…少しでも見えれば直ぐにも納得して上げるのに…と、誰もが考える所では無いでしょうか。

ところが、実際には万人が霊界を眺め、又霊を目の当たりにしているのです。其れも度々…と言うより、殆ど毎日しているのですね。

其れが『夢見』と言う奴です。

言葉で言うのは困難なのですが、私達は眠りに入る時と目覚めの時の二度、必ず霊界と接触すると言うか、霊界を通過して眠り且つ目覚めると言うのです。僅か一瞬の事らしいですが、時間も空間も無い霊界では一瞬が何時間にも成り又瞬間にも成ると言う訳で、どちらも味わえるのですね。幼少期は霊界と接触親和性が強いですから、眠りに就こうと言う時に…誰も居ないのに人の囁き声が聞こえたり、時には大勢の話し声が喧しく耳元にしたり、足音や意味の無いざわめきが聞こえドキッとしたりしたものでは無いですか。何かが見えたりする事だって有ります。大人に成ってからでも時にはそんな経験が有るものです…寝入り端には霊界を通過するからです。

目覚める直前に観る《正夢》は霊界を通過する時に観る夢見の事です。

此れは幽界に在るものと、霊界に在るものと擦れ違った瞬間に見た光景だったのです。


I先生が嘗て師に尋ねた事が有ります…

「幻想的な…ファンタジックな夢を見る事が有ります。未だ嘗て行った事が無い処、良く見ると訳が分からない…どう理解して良いか分からない、夢が幻燈写真の様に虚ろに出て来る夢と、カラーフィルムを見ている様にくっきりと浮かんで来る夢とが有りますが、此の夢は何処が違うのですか?」

こう申したら、師は…

「其の幻燈写真の様に映る時は"妄想"に因るものだ。一つの想念が自分の中に働いて自分自身で想像している場合に起こる夢だ。

そして、天然色写真と言うのは霊界だ。」

…と。其の事は後に成って…つまり霊眼が開眼してから非常に良く理解出来たと言われ、次の様に語られました…。


「実は霊界を凝視すると言う事は全部カラーフィルムですから、色も鮮明だし、澄み切っているし、大変美しいし、汚い物は真に汚い。同じ色目でも…例えば"赤い色"…其の赤い色が極めて毒々しい色に成ると、此れは地獄の色でして、何とも言えない気味の悪い毒々しい色に成ります。

青色も、黄色も、また煉瓦色も様々な色が有りますが、濃い濃い毒々しい色に成りますと、花一輪見ましても何か黒い…真っ黒な茎に真っ赤な毒々しい、薔薇なら薔薇の花が有るのです。

現界では見られない毒々しさが有ります。

そう言うお花畑が一杯在るのです。

ところが背景はどうかと言うと、通常は真っ暗闇でそう言うものは見えない筈なのです。

肉眼の場合は暗いのですから…。

ところが、霊眼で霊界の植物なんてものを良く視ますと、真っ暗がりなのに、其のカラーがどうして鮮明に出るのか、此れは分かりません。

真っ暗がりなのに毒々しい薔薇の花一輪、矛盾無くきちっと映って来ます。

こう言う世界ですから、より高い世界と成ると、段々段々と色目が薄く成って行きまして、最後には澄み渡った秋空の様な、其れでいて澄み切った…更に高い世界に行きますと、段々光が当たって…光に因って浄化されて行きますから、所謂、滝に朝日がパァーッと射す様に何とも言えない清々しい色、其のものの中に何とも言えない品性が滲(し)み出ている…或いは其の色から"香り"が漂って来る、そして光が大変美しい。

更に又其の上を行けば、軈て黄金色に変わり、黄金の色が燦々と降り注いで、更に其の上を行けば、白光に変わる。

真っ白な光がビカッと光って其の周囲が全部見えます。

そう言う様にして、霊と言う世界の眼には、地獄から霊界構造の高い世界に至る迄、実は鮮明に其の色目に因って界層が区分されていると言う感じを受けるのです…。」

…と。