宇宙の根底が物であり、物から心が生じた…と言うのが『唯物論』です。
宇宙の根底が心であり、心から物が生じた…此れが『唯心論』です。
哲学の世界は此の二つの考え方に支配されていた観が有りますが…然し、何れの考え方も゙誤りであると、師は喝破されました。
何故か。
師は、次の如くに語られました…
「物が心を生じ、心から物を生じたと『唯物論』『唯心論』は言いますが、"無"から"有"を生じ無いのが『宇宙の鉄則』であるならば、物から心を生じたとしても、其の物は心を含んだ物であったから、物から心が生じる事が出来るのです。
其の心は物を含んだ心で無ければ物を生じたと言う事は有り得んのです。

つまり、"単なる唯物"単なる唯心"では無く、物を含んだ…元々物を含んだ心、元々心を含んだ物で無ければ、物から心を生じるにしても、心から物を生じるにしても論理上成り立たんのです…と、心を含んだ物、物を含んだ心と言う事に成れば、"唯物"でも無い"唯心"でも無いと言う事に成ります。宜しいでしょうか。

さて、其処で言いたいのは"物とは何だろうか"そして"心とは何だろうか"と言う事です。
物とは…第一に、"時間と空間を独占している"と言う事です。
物が其処に存在すると、其の同じ時間と空間に二つの物が存在し得ないのです。
つまり物と言うのは時間と空間を独占していると言う事が第一の物の特性であります。

さて同じく物の特性はと言うと、物は或る程度の延長はしますが、無限の延長は無いのです。
つまり"物は不延長"であります。
物は或る程度は伸びても無限に伸びないのです。
だから物の特性の第一は"時間と空間を独占している事、物には無限の延長性が無い"と言う事です。

さて其の次には、"物は慣性に因って動きます"。
動こうとする物質は何時迄も動くと言う運動を続け様とし、留まっている物質は何時迄も留まって居ようとする…つまり"慣性"であります。

だから、物の特徴は、『時間空間の独占であり、無限の延長性が無く、そして慣性の中に動いている』と言う事に成ります。

ところが一方、"心は時間と空間の独占が無い"のです。
今、此処に一人の女性が在った場合、仮に結婚して其れを自分の女房にすると言う事は一人しか出来ないのです。然し、其の女性を心で思う事は誰でも出来るのです。
つまり"心は独占性では無く、時間空間の共有性が有るのです"。
一つの物質が在った場合、其れが欲しいなあと思う…万人が其のダイヤモンドを欲しいと思う事も可能であります。
けれど其れを自分の所有権の中に移すと言う事は一人の人間しか…其れは暴力で奪うか、それともお金で買うか別にして、喧嘩して獲るか、お金で買うかは別にして、自分の所有権の中に置くのは一人しか居ないのです。
つまり、時間と空間の独占性の上に物は動いておる。

ところが、心は幾らでも共有が出来るのです。人間の心の思う事は何万人でも一つのダイヤモンドを欲しいなぁと思う事は勝手であります。
だから心は独占性が無い。
時間と空間の占有性が無い。
其れから心と言うのには延長性が有ります。
だから心の中に宇宙と言う無限大に値する、此の広い宇宙を、此の心に思う事も゙出来ます。
近い所ではお月さんを思い…お月さんはどうして出来ているか。何処に在ると言う様に思う事が出来ます。
哲学的に言うなれば、此の無限大と言われる此の宇宙を心に思う事も出来ますから、無限の延長性が有ると言う事に成ります。

其れから心には慣性が無いのです。
今鳴いたカラスが、もう鳴止んだと言う事は子供には始終起こる事です。
今泣いていたと思ったら、もうすぐに笑う…同じ事で、人間の心はコロコロと変わります。
つまり慣性が無いのです。

だから言いたいのは、物の特性は時間空間の占有性であり、有限の延長性であり、そして慣性の中に在る。
然し、人間の心は時間と空間の独占では無く、幾らでも共有が可能であります。其れから無限の延長性が有り、其れから慣性の中に居らんのです。コロコロ変わるのです。
コロコロ変わるから"こころ(心)"なのです。

そうすると、心から物を生じ、物から心を生じるにしても、此の正反対なものを生じる事に成ります。
唯物論の、物から心を生じると言うのは、物自体の中に心…即ち正反対の性能を内在しておったと言わなければ論理上合わんと言う事に成ります。
又、唯心論の心から物を生じたと言う立場を執るなれば、其の心には正反対の性能を本来含んでおったと、論理上言わなければ、無から有を生じ無い限り物から心を生じる事も、心から物を生じる事も共に不可能と言う論理が成り立つ訳です。

そうすると、元々唯物論の場合、物から心を生ずると言う事は、物の中に心を含んでおったと言わなければ成りません。
又、唯心論の場合、心から物を生じたと言うなれば、心の中に正反対の物を内在的に持っておった…と、本来そうで無ければ言い様が無いのです。

だから、唯物論も唯心論も論理的に言って成り立たず、心を含んだ物、物を含んだ心が元々在ったと言わなければ成らないのです。
そうすると心を含んだ物は"唯物(ゆいぶつ)"でありましょうか、物を含んだ心は"唯心(ゆいしん)"でありましょうか。
本来、生じたと言う事は元々含んでおらなければ、生じる事が無いと言う論理から言うなれば、唯物も唯心も成り立たんのです。

物を含んだ心、心を含んだ物が元から在ったと言わざるを得ないのです。
此の心を含んだ物、物を含んだ心、どちらにウェイトを置いても宜しいけど、其れを東洋では…取り分け神道では『命』と言うのです。
だから、命から物を生じ、命から心を生じたと東洋では言うのです。
元々の元々は、物に非ず心に非ず、物にも成り得るし、心にも成り得る…"命が其の宇宙の根源"だと言う訳です。

つまり唯心論に非ず唯物論に非ず、『生命論』の上に立つのが東洋の哲学であります。

そうすると、唯物論でも唯心論でも無いのです。
元々、物も生み出し得るし、心も生み出し得るものが根源であったと言わなければ成らん。其れを東洋では、『命』と言いました。
又、『法』とも言いました。佛法の法であります。

さて、此れを天台宗の教学である『天台教学』は見事に説いているのです。
宇宙の根底は"非色非識(ひしきひしき)"…物に非ず、心に非ず。
"而色(しかしてしき)而識(しかしてしき)。唯色唯識"
天台教学はこう教えるのです。

宇宙の根底は、物に非ず、心に非ず。
然し、物にも成り得るし、心にも成り得る。
『而色而識』
それで、物に成ったら物の法則で動くし、心に成ったら心の法則で動く。
物が存在するのに、そんなもの無いと思うたら消えると言う様な事は言わんのです。
だから、"宇宙の根底は物に非ず、心に非ず。物にも成り得るし、心にも成り得る"。
其れを称して佛法では『法』と言い、哲学的には『命』と言うのです。

其れで、命が根底に在って、其れで命から物も生じるし、心も生じる。
其れで物に成ったら物の法則で動くし、心に成ったら心の法則で動くと…天台教学は的確に教えるのです。

唯物論者は、宇宙の根底は"物が根底で、物から心が生じた"と言う。だから宇宙は物の結合の法則で動くと言う…つまり『唯物弁証法』に従って動くと言う。
唯心論者は、"宇宙の根底は心であって心から物を生じた"。だから心の結合の法則が宇宙の根底の法則だと…此れがヘーゲルの言う『観念弁証法』であります。
片一方はマルクスの言う『唯物弁証法』であり、片一方はヘーゲルの言う『観念弁証法』だと言う事に成ります。
然し宇宙の根底が物で無く心で無く、命であるなれば『命の結合こそが宇宙を貫く法則だ』と説くのが佛教であります。

宇宙の根底が物か心か、命なのか。
物であったら物の結合の法則が宇宙を支える一貫した法則であり、宇宙の根底が心なれば心を結び付ける観念弁証法が宇宙を支える法則だと言う事に成ります…と、マルクスやヘーゲルが言うのです。
けれど実際はそんな事は言って無いのです。

昔から言う様に、マルクス、エンゲルスと言われたエンゲルスと言うとマルクスのスポンサーでした。
マルクスは貧乏学者で自分の書いた書物を出版する力が無かったので、其の当時のお金持ちと言えば失礼だけど、資産家であったエンゲルスがマルクスの書いた資本論等も、唯物弁証法等も出したのです。
其のエンゲルスが言ったのであって、マルクスはそんな愚かな事を言う程出来の悪い学者では本来無かったのです。其れは徐々に説いて行きますけれど…。
只、今日言わんとしている事は宇宙の根底は物なのか、心なのか、命なのか…と。

佛教は『宇宙の根底は命であって、物に非ず、心に非ず、其の命から物を生じ、命から心を生じ、其れで物と成ったら物の法則で動くし、心と成ったら心の法則で動く』と、此の様に佛教は教えるのです。

"弁証法"と言う表現を採る事は私は反対ですが…強いて弁証法と言う表現を取るなれば、ヘーゲルの観念弁証法に従うか、それからマルクスの唯物弁証法に従うかと言う事に成りますから、強いてそう言う表現が判り良いと言うなれば私は『生命弁証法』に従ってものは動いているんだと言いたい。
けれど私は弁証法に疑いを持っていますので、物事が正反合で動くと言う弁証法に疑いを持っていますので、其れは頭の悪いカントが言った事なので、其の亜流をヘーゲルやマルクスが踏んでいる事だけであって、東洋の哲学はそう言う愚かな事は言わんのです。

弁証法と言うのは、本来、討論の形式であって、哲学の範疇のものでは無かったのです。
討論の形式…一人の人が意見を吐く、Bの人は反対する。二人が意見を叩き出して激論をして、論理を進めて行くと言う討論の形式を弁証法と言うのであって、正反合でも無ければ、何でも無かったんです。
だから、敢えて頭の悪いヨーロッパ人は…と言ったのです。然しそう言う表現を取らんと皆が分かり難いと言うのなら、私も唯物弁証法に非ず、観念弁証法に非ず、『生命弁証法』に従って宇宙は動くと、皆が其の方が理解し良いと言うのなれば、敢えて言おうとしているのです。
本来、弁証法と言う事を一つの宇宙の結合法則だと思ってないものですから…じゃ、何を思っているのかと…。

私は宇宙は『因縁果』で動いている。
因·縁·果。
因は直接原因。
縁は間接原因。
直接原因と間接原因…お父さんとお母さんで子供は出来る様に、直接原因の"因"、間接原因の"縁"…種と畑に因って結果が出来るんだと、因縁果因縁果で世の中は動いていると我々は思うのであって、正反合と言った弁証法で動いていると思って無いのです。」
…と説かれた。