三次元物質世界としての地上世界である現界と思いの世界・心の世界・念の世界である霊界は、何度も申しましたが、本当に似て非なる世界です。物質世界の理屈では到達出来ない…正に、経験して体感する、身を以て味わう事でしか理解出来ない世界です。
例えば、我等は時間と空間に束縛されていますので、同一時間に異なる空間に同時に存在出来ません。又、同じ空間を複数で占める事も出来ません。
恋人同士は心は一つ…と言っても肉体と言う物質が邪魔をしてこの世での現実問題としては二人の心は決して一つと同化する事はありません。然し、霊界では同一時間に複数の場所(空間)に一柱の霊が存在する事も可能ですし、恋人同士の心が同化する事も可能なのです。

勿論、「二人の心は一つだよ」と言葉にしても心の中で別の相手に思いを馳せている様な二人が心一つと同化する道理はありませんが…。霊界では嘘は通じません。建前では無くて常に本音の世界だと思えば間違いありません。

猜疑心と傲慢さと保身と虚栄を満たす為に他人を貶め北叟(ほくそ)笑むだけの醜い心でも美しく心地好く装う言葉で取り繕えるのはこの世だけの話です。


神仙界の神祭りに参画を許された方々を観ていると、時に夫婦揃って居並ぶ事も有れば、男だけで神祭りに参画している場合も有ると霊視された方から伺った事が有ります。

師に尋ねましたら、神祭りの内容に応じて夫婦の一方だけで参画している時には、純粋に一人だけで参画している場合も有れば、夫婦揃って参画する場合も有れば、一方に一方が同化して二人が一人と化して神祭りに参画する場合も有る…と教えて下されました。

また、神と繋がってさえいれば、何人かが同時に北海道と九州と四国や北陸辺りで神を呼べば神は同時に総ての場所に御出座(おでま)しに成られます。

霊界とは我等地上の知識に縛られている者に執っては、斯様に不可思議な世界でもあるのですね。

目に見える範囲の僅かな知識にしがみ付いて、自分の理解の及ばない事象は有り得ないと一蹴して自分の狭い了見に固執している限り、決して辿り着けない世界が霊界なんですね…とは言え、流石に「おい、霊界にはゴジラだって実在してるんだぞ」と師に教えられた時には冗談かと思って仕舞いました。

然し、事実、ゴジラもラドンもモスラもキングギドラもアンギラスも…当然、キングコングも霊界に居ると言うのです。

其れを聞いて、何度かゴジラが暴れている夢を見た記憶が蘇りました。

其は酷くリアルな夢でした。


師は仰せでした。此のゴジラ達は思凝霊として霊界に確かに存在している…と。

『思凝霊』とは字を観れば分かる様に“思いが凝り固まって出来た霊”と言う訳です。

“しぎれい・しごれい”と古神道では呼びますが、“しぎょうれい”と読んでいる方も一部には居られる様です。

そして、思凝霊は一般的には人間の想念と言う膨大なエネルギーに因って誕生します。分かり易く言えば、“人の思いが生む霊を思凝霊”と言うのです。人の思いが生む訳ですから千差万別の様態を持つ事に成ります。

例えば、世に言う“化生(けしょう)”と言うのも思凝霊です。佛教に於いては“化生”は、母胎や卵等からでは無くて忽然として生まれたもの。天界や地獄、中有の衆生の類とされます、つまり人間だけでは無くて、神も思凝霊を生み、地獄の霊人も思凝霊を生むと言うのですから、玉石混淆の霊であると言えますが、本来は神の迷いの想念、穢れの想念が化生を生んだのです。


所謂、古事記に於ける“国生み神話”の二柱の主人公である伊邪那岐大神と伊邪那美大神…本来神も佛も名前はありませんから、伊邪那岐伊邪那美大神と雖(いえど)も全て人間側が奉った名前を神々が相応しい呼称として受け入れられたと言う事に成りますので、古事記以前には別の名前で人間に呼ばれていたとしても不思議は無いのですが、“伊邪(いざ)”と言うのは“物事をさあ始めるぞ”“此から躍動するぞ”と言う意味の言葉です。剣道等で「いざ!」と言うて始めるのと同じですね。見事な御名前です…は、国生みの途中で火の神をお生みに成られた時に、人間的に言うと火傷を召されて伊邪那美大神が死んで黄泉の国へ行かれた…と、如何に神々の世界も情けの世界であっても、死せる者を追うのは此れは愚か…迷いの最たるものです。

然し神と雖も、未だ或る意味生まれたての未熟な悟り得ていなかった伊邪那岐命は妻たる伊邪那美命を追い求めて黄泉の国へと追い掛けて仕舞いました。

最後には“我が迷い”に気が付かれ、伊邪那岐命は迷いに因って生じた穢れを筑紫の日向(ひむか)の橘の小門の阿波岐原で禊を召されました。

問題は此処でした…宜しいでしょうか、因縁の世界は一度蒔いたものは謝っても堪忍してくれないのです。

穢れは穢れとして、例え身から削ぎ落とされても穢れは穢れとして永久運動をするのです。

此の永久運動の中で穢れから妙な“化生”を生むに到ったのです。

そして、一旦生まれた化生も同様に永久運動を始めてしまいます。

こう成ると、化生を殺す訳には行きません…何故なら霊は死なないのですから、結局化生は封じ込める以外に無い事に成ります。

同様に、人間に仇なす魔界のものがやはり長い年月の間に各地に封じ込められていると言う事に成るのですが、何も知らない愚かな霊能者やちょっと行が成った行者辺りが“権力者に封じられた哀れなもの”を救う等と封印を解いて回って悦に入っている間に解かれた魔界の化生が悪さを働く事にも成ると言う訳ですね。


ともあれ、化生とは強いて言えば、伊邪那岐伊邪那美大神の罪穢れに因って生じたと言う訳です。

勿論、伊邪那岐伊邪那美大神だけの化生ではありません。

世に迷える人の発する全てが、何気無く言う言葉であっても、皆そう言う想念が類を以て友は集まる式に集い凝り固まって一つの思凝霊と化して活動を開始して行くのです。

当然想念は悪念ばかりではありませんから、所謂恐ろしき化生ばかりでは無い事に成ります。

子供達が絵本や親の話から空想した可愛いエンジェル…キューピットも霊界に思凝霊として存在しています。


つまり、人間達の迷いや邪な考えから生まれた思凝霊は今度は誰か別の者が邪な考えを持てば即座に邪な考えが生んだ思凝霊の元へ次々と飛んで行って邪を助け、協力を謀ります。

だから、「悪い思いを抱くなよ」とか「悪口を言いなさんな」と昔から言われて来たのは、何となく分かっていたからなのでしょうね。

悪い事は出来ないのです…誤った事を思い、口にすると即座に悪い思凝霊達が寄って来るのです。我等には見えないだけで、悪念に相応しい怪物が寄って来るのです。

そして心に抱いた悪念が寄って来た低い霊達に因って増幅させられるのです

神々の誤れる行為と誤れる思いの永久運動のエネルギーが化生を生み、更に、人間の迷える寄せては返す波の如き人間の持つ煩悩が次々と悪しき思凝霊達を造り出して来たのです。

こうして、悪い事を言う度に悪い化生が寄って来る事に成る為に、其の悪しき霊の因縁に感化され、段々其の悪い事を言った者の運命も悪く成って行くのです。

軽口の積もりで他人を嘲笑った途端、他人をふざけて苛めた途端、言った分だけ、遣った分だけ自分の人生に返って来るのです。段々其の重さに軈ては押し潰されてこの世の人生の終わりを迎えて行く事に成る…“人を呪わば穴二つ”とは此の事を仄(ほの)めかしているのです。


実は漫画家とか小説家は空想の産物として、化け物や怪物を描いても、其は漫画の世界、小説の世界、映画の世界だけの事と気にも留めずに次々化け物を量産していますが、人気が出れば出る程に大勢の読者や観客が其の化け物に思いを掛けますから、実は死後霊界で必ず作者達は自らの想念の産物である怪物達に襲われる事に成ると言います。

自分が想像した怪物だから出会えて嬉しい…なんて言ってられるのはこの世での感覚に過ぎない様です。実際に襲われ八裂きにされる苦痛と恐怖を味わう事に成るのですから、とても“出会えて感動”とは行かない様です。

師から其の話を承って、僕は自分の作品の為に怪物や化け物を想像するのは止めました。


実は、一般に生霊と言われているのも思凝霊なんですね。

生霊と言うと、何でもかんでも呪いだとか、恨みだとかの怨念が生霊だと思われがちですが、現実には丑の刻参りで発した念は怨念の思凝霊として相手の元へ飛んで行きますが、我が子が可愛い、守りたいと言う強い思いとか、愛する者を常に見守りたいと言う願望が強烈ならば必ず思凝霊と化して守りたい相手の元へ馳せ参じます。どちらも所謂生霊なのです。善悪を超えて人は常に思凝霊即ち生霊を思いの相手へと飛ばしているものなのです。


生者の念が生霊と言う思凝霊を生む様に、地獄に堕ちた死者も念を以て思凝霊を生み地上世界へと派遣します。一般に死霊と言われるのは実は死者本人では無くて思凝霊である場合も有るのです。死者は地獄に居ながら思凝霊を通して地上の思う相手を襲うのです。此の辺りの消息は以前地獄探訪の中でも触れておりますのでお読みに成られた方も居られると思いますので詳細は省かさせて頂きます。


さて、世に言う“夜叉神(やしゃがみ/やしゃじん)”と言うのは“大勢餓鬼(たいせいがき)”と呼ばれる餓鬼なのですが、此れは人間が餓鬼と転生した姿では無くて、どちらかと言えば自然霊に近い思凝霊です。

つまり人間の観念が造り上げた餓鬼なんですね。此の餓鬼は常に青い…詳しく言うと、青いと言うより紺色よりちょっと薄い色で模様は付いていません…着物を着ていて、大体樹林…林の中とか、谷間に居たりしますが、専ら寺院に住み着いて居ると言います。

大概の寺院に居ると言います。

まあ、寺院と言うのは亡者の巣ですから不思議は無いかも知れませんが、時には神社にも居るそうです。然し、神社よりも寺院の方が夜叉の巣と化していると伺っています。

好く寺の阿彌陀さんとかの仏像の置いてある後ろは窓が開けて有りますが、あれは本来は、亡者が自由に出入りする事が出来る様に…と言う配慮だそうです。

大勢餓鬼は餓鬼の中でも別格で、餓鬼にしてはゆったり構えていて、供え物をたっぷり食べれるし、気が付かないお坊さん達や参った人々から拝まれたりしている餓鬼です。


自然霊に近いと言う訳ですが、自然霊と言うのは思凝霊と根本的に違うのは人間の想念から生じていないと言う事でしょうね。

一般的に言えば、龍神も天狗も自然霊です。また、原子とか分子と言うのも自然霊の因縁の元に在ります。

つまり自然霊の説明をするには宇宙神界を流れる霊流の話に迄及びますが、簡単に申せば、此の地上の物を物たらしめた霊的エネルギーが自然霊なのですね。

もう少し詳しく言いますと、佛教が言う大日如来と言うのは神道で言う天照大御神とされていますが、其は太陽系神界だけの話で終わって仕舞います。実際には宇宙神界の中心に御在します天津身光日乃大御神様の神籬が天照大御神様なので、哲理上は大日如来は天津身光日乃大御神様であると言う事に成ります。

此の天津身光日乃大御神様から来ます霊流は我等人間には夫々の霊統主の霊統を通して…つまり、我等の各々の主護霊、主護霊、主護霊…と言う霊魂の流れを通って来るものと自然霊の中を通って来るものの二通り有ると伺っています。

そして此の自然霊の中を通って来るものが物質へと言う“型”を執るそうです。

此れを私の師は哲学・倫理として次の様に説かれました。

“生命と言うのは物でも心でも無いが、物にも成り得るし心にも成り得る。物と成れば物の法則で動き、心と成れば心の法則で動く”と。

つまり、“心と成れば”とか“物と成れば”と言う立場から言うと自然霊の始まりは電子とか素粒子等と言う様な形に出発点が行ってしまう訳ですが、大事な事は此の地上と言うものも、所謂、本来的姿として、此の“物”を物たらしめた“霊的エネルギー”が在る事に成る訳ですが、其れを“自然霊”と言う…と、御神霊は仰せでした。

そして其の自然霊は実は“龍神”から出ているのだ…と。

つまり、元の元を正せば龍神こそが“物質の元”とも言える事に成ります。

勿論、龍神をして物質元素とは言い切れませんが、ともあれ、こう言う順序を経て生命(いのち)が物と成り心と成ったと言うのです。


では、龍神の姿を執っているのは何か?…と言うと、実は見るべき眼にああ言う姿に見えているだけで、其は単に霊能者の眼に、所謂、龍体に見えているのは事実でも、本来龍神はあの様な固定的姿を常にしていて、ウロウロしていると言う存在では無いのです。

実は、現に龍神でも人間の姿を取っているものは数々在るのです。

唯、躍動している時に姿・形を捉えた場合にあの龍体に見えると言うだけの事なのです。


龍体に見えるから本来の姿が龍体であると言うものでは無いと言う事。龍体のみを龍神であると言う概念では少し龍神の真実を捉えるのは難しいのですね。

姿が見えるからと言って、固定的姿と言う様な固定的なのは何も無いのです。

実は“其の都度其の都度に於ける姿が違って行くと言う…役割に相応しい姿を執るのが龍神である”と御神霊は説かれました。


そして、表現は少し大雑把ですが、龍神と召し使いの関係に在るのが自然霊に成ると言います。龍神を霊体として捉えれば幽体的なものが自然霊であり、そして永い年月の間にはやはり“自然霊も念力を発します”し、やはり念の在る所には宇宙の塵達が集って来る事と成り、此の辺りに此の三次元宇宙はどうして出来たか等と言う答えが潜んで居る事に成る訳です。


つまり念の在る所に、やはり念に引き寄せられるものが在ると言う事に成るのです。

其の辺の塵を集めて息を吹き掛けたらアダムとイブに成った…と言うのは極端でも、やはり宇宙間に於ける出来事は三次元を超えた世界に於いてでも、念に於いて集って来るものはやはり存在すると言います。

いつの日か自然科学が此の辺りを明らかにする筈だと御神霊は仰せでしたが、「此の物質以前の物質たり得る宇宙の塵が、軈て次第に物質への姿を執って来たのが今日の現象界だ…と言っておこうか」と御神霊は我々に告げておられます。


龍とは流に通じるのです。

つまり、この世のあらゆるものを流し、活動を支えるエネルギーの根源が龍神だと成る訳です。


さて、我々の肉体を構成しているのも元を正せば原子だ分子だと成る訳ですから、此れは自然霊の因縁と成りますが、ところが、肉体と言う形で固まって仕舞うと…つまり肉体と言う一つの生命体に構成されて仕舞うと自然霊の因縁は来なく成るのだそうです。

理屈で言えば肉体を構成する四百兆とも言われる細胞は自然霊としての細胞なりの因縁を持っている事に成りますが、一旦一つの生命体として構成されて仕舞うと、アメーバの様なものであれば自然霊の影響を受けても、精神現象迄豊かに持っている生命体として固まったら元の母屋の自然霊の影響を受ける事は無いのだそうです。


つまり人間に成ったならば、肉体としての自然霊との縁が切れると言う訳です。

と言う事は、当然哺乳類全般に自然霊との縁が切れているし、厳密に言うと、樹木も切れていると伺っています。

それなら樹木に自然霊が宿っているのかと言うと、実は樹木の精と樹木の主護霊とは別なのだそうです。樹木の主護霊は自然霊と言っても天狗だと伺っています。

天狗界と言うのも実に膨大な世界だと言います。天狗界の支配下の中には魑魅魍魎とでも言えそうな色々な形をした自然霊が存在していると言います。


ともあれ、分かり易く言えば、感情を持てる生命体に於いては、先ず自然霊との縁が切れていると考えて間違い無いのだそうです。

実は、庭の樹木でも自分の個々の細胞的存在の自然霊とは縁は切れてるけれど、今度は樹木としての存在に宿って来るものは居ると言います。

所謂一般に“精”だとか、“フェアリ”“妖精”と言うのは樹木から生み出されたものも在れば、宿って来たものも在ると言うのです。

お分かりでしょうか?

一口に自然霊と言っても、自然霊と言う言葉自体が含む意味合いは実に複雑で、我々地上の人間に全て解き明かす事は実に難しいのだ…と御神霊も何度も仰せでした。


思凝霊と自然霊との違い。自然霊と龍神との大まかな関係等を神仙界に御在します御神霊から伺った話を元に綴ってみました。

彷彿として頂けましたでしょうか…。