私の師は嘗て上代史で文学博士を取られた方でした。
師は邪馬台(ヤマタイ)国とはヤマト国の訛ったものであり、卑弥呼(ヒミコ)とは比賣神子(ヒメミコ)がやはり訛ったものだと比定されておられました。
そして「今の日本人はどうも自国の歴史から推考するより他国の文献を尊重し過ぎるきらいがあるが、歴史と言うものは…殊に王朝が激しく変わる様な国では、文献の内容は余程吟味しなければ真実は見えて来ないと言う事を肝に銘じておかなければならない」…と言う事を仰せでした。
確かに卑弥呼が出て来る魏志倭人伝は西晋の陳寿と言う方が遠く離れた国、しかも他国は全て自分達より劣っているとの観念の元で耳にした話を綴る訳ですし、漢字の国に誇りを持つと言う事は自分なりの文字を当て嵌めて良しとしたであろう事は容易に推察出来ます。母国語で無い言葉は似た言葉として耳に入ると言う事は我々も好く体験する事です。
ともあれ、卑弥呼は鬼道に仕えた女性と言う事ですが、儒教と異質な神道を鬼の教えと捉えたであろう事も容易に頷けます。

日本は紛れも無く古より連綿と続く神道の国であり、各地に存在する神社に於いてその中心は神の意思を聞いて人々に伝える“託神姫(たくしんひめ)”と言う“神伝え人”でした。即ち“比賣神子”である巫女(みこ)です。神主は審神者(さにわ)が任務ですから、本来は神の意思を伝える比賣神子が神社の要だったのです。

つまり今風に言えば、卑弥呼とは個人名では無くて比賣神子(巫女)と言う役職に就く女性集団と観る事が出来ます。
神道の中心は皇室ですから、敢えて卑弥呼を一人の人間と考えたいならば、仲哀天皇の御后であった息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと)こそが世に言う卑弥呼であったかも知れません。
神道を知らず、また深く学ぶ術も無い遠い他国から観れば、神の意思を伝える比賣神子に因って国の政が動くヤマトの国は正に卑弥呼の鬼道に操られる国と映っても何ら不思議はありません。

『その大后息長帯比賣命は、當時(そのとき)神を歸(よ)せたまひき。故(かれ)、天皇筑紫の訶志比(かしひ)宮に坐しまして、熊曾国を撃たむとしたまひき時、天皇御琴を控(ひ)かして、建内宿禰大臣沙庭(さにわ)に居て、神の命(みこと)を請(こ)ひき。』

息長帯比賣命は実は託神姫である比賣神子として神籬(ひもろぎ)と成られた方でした。つまり神の依代(よりしろ)即ち神が憑依する対象であったという立場のお方だったのです。神が憑依する事を神憑(しんぴょう)と言います。

神をお呼びする為に仲哀天皇が琴をお弾きになり、息長帯比賣命は神憑りをされる。
そして建内宿禰が沙庭(審神者)をされました。
息長帯比賣命と言うお名前が示すのは此の方は息が長い…これは精神統一の時の息が長いと言う事です。精神統一に入るには息を長くするのがコツなのです。吐く息と吸う息の時間をどれだけ長く出来るか…です。例えば、一分で吐いて一分で吸う、次に更に長く吐いて同じ長さで吸うのです。我々なら多分十秒で吐いて十秒で吸う事ですら中々出来ないでしょう。一度だけなら出来るでしょうが、吸う音も吐く音も聞こえない程の正に虫の息と言うその静かな呼吸を続けられなければ本当の精神統一は出来ません。
息長帯比賣命という名前を給わる程に優れた精神統一を為された方であったと言う事です。

そもそも、何故に神示をとる事に成ったのかと言う理由に就いては古事記・日本書紀共に、金銀眩い宝の国が在って、此れを獲れと神が示された事に成っています。
真相はその通りであったのか…実は、古事記も日本書紀も当時の佛教と神道の争いの狭間…と言うよりも神道を蔑(なあがし)ろにせんとした当時の佛教勢力により事実が歪められ、神道を貶められた記述が随所に有りますよ…と、以前のブログで綴った事を此処で思い出して欲しいのです。

実は、倭建命が熊曾を討ち日本を平定された訳ですが、やはりその後も日本を掻き回す者が後を絶たなかったのです。
それも掻き回す輩は日本国内だけでは無くて、日本の回りにも居たのでした。其れが当時の朝鮮でした。

当時は三韓と言って、朝鮮は三つの国に分かれていました。
そして日本に近い新羅の国が壱岐、対馬を経て九州へと手を伸ばして掻き回すのでした。
その度に九州が踊ったのです。

仲哀天皇はこの熊曾平定の為に穴門(あなと)(長門、現・下関市長府)豊浦宮(とゆらのみや)(現・忌宮(いみのみや)神社)を興して七年の間政務を執られました。
此処に新羅の塵輪(じんりん)と言う者が熊曾を煽動して攻め寄せ、皇軍も此れを迎え撃って奮戦しましたが、宮門は破られ、多くの武将や天皇側近の重臣達の多くが討ち死にして行ったのです。
現在で言えば敵が上陸して国の大臣達が討たれ国家機能が麻痺する迄に追い込まれた状況だったと言う事です。
それで、筑紫の香椎の宮に進出し、天皇が神示をお取りに成ったのです。

すると、「今、九州を鎮めるには新羅の国を討たなければ収まらない。新羅の国を討て」と、御神霊が仰せに成ったのですが、天皇は「高い所に登って見ても、見えるのは海ばかり、国等は見えない。偽りを言う神だ」と言って、御琴を弾く手を止めて仕舞われました。

そこで神様は怒って「この国は其方(そなた)の様な者には治める事は出来ない。直ちにこの世を去れ」と仰せに成りました。
沙庭の建内宿禰大臣は「恐れ多い事…天皇様、御琴をお弾き下さいませ」とお勧めすると天皇は嫌々ながらお弾きに成りましたが、直ぐに御琴の音が止んで仕舞いました。
神示を取る時には暗がりで行うものなので、急いで明かりを点けて見ると、既に仲哀天皇はお亡くなりに成っていたのです。
皆は驚いて、天皇の亡骸を殯宮(もがりのみや)にお移しして更に大幣を以て大祓いをして穢れを祓い清めてから神の命を再び請う事に成りました。

神は先日と同じく託宣され、その上で…
『「凡そこの國は汝命(いましみこと)の御腹に坐(ま)す御子(みこ)の知らさむ國なり。」とさとしたまひき。ここに建内宿禰(たけしうちのすくね)、「恐(かしこ)し、我が大神、その神の腹に坐す御子は何れの御子ぞや。」と白(まお)せば、「男子(おのこ)ぞ。」と答へて詔(の)りたまひき。』

この国は、息長帯比賣命のお腹に居る御子が知らす国であると言われた。
建内宿禰は「大神様、その御子は何れの…」とお尋ねすると、「男子である」とお答えに成られたと言う事です。
其れが後に応神天皇と成られた方です。

三韓征伐を成功に導かれた神様は、住吉三神です。即ち底筒男(そこつつのお)・中筒男(なかつつのお)・上筒男(うわつつのお)の大神です。