伊勢原くだかけ会で

 

 いつもここでは松田高志先生(教育哲学)の本『いのち輝く子ら』をテキストに勉強会をしています。

 今日もほぼ常連さんで楽しくお話しました。

 

 今日のテーマが「うぶの反対」という題だったのです。

 皆さん予習をして来たのですが  「まったくわからなかった」という感想から入りました。

 

 でも結局、とても面白い所に行きつきました。

 「真のおとな」とはという所です。

 

 話の途中に「肝っ玉母さんの いさぎよさ」という例えが出てきました。

 

 すると「肝っ玉って母さんじゃあなきゃあいけないの? 肝っ玉父さんっていないの?肝っ玉ジイサンはいないのか?」などと言う発言がありました。

 少し本筋からは外れましたが、僕の見解を話しました。

 

 人類にとって「母」なる性はどう見たって男より優位というか、メインなのです。要するに男は「付属品」「補助」なのです。まあカエルを見たってそうですよね。

 

 実は男は威張れたものじゃあないのです!

 

 まあそんなこんなで今日もとても楽しい勉強会の和やかな「伊勢原くだかけ会」でした。

 

 教育哲学というお堅い肩書の松田先生の本の話題はとてもいい勉強会になるのです。

 

 次回は9月14日です。皆さんぜひご参加ください。

七夕に願い事

 

 数日前から、山では夕暮れに「ヒグラシ」が鳴いています。

 遠くで鳴くヒグラシは、なんとなく物悲しい響きがあります。

 

 でも、間もなくうるさいぐらいに鳴きはじめるでしょうから、もの悲しいというのも今だけですね。あとはニーニーゼミが鳴いています。

 

 さてもうじき「七夕」です。

 七夕と言えば「願い事」を短冊に書いて笹に飾るということです。

 

 お山の「くだかけ農園」の奥にある「全真堂」では、もう何十年も前から「願い事を預かって、一年間大切に「お釈迦様」の下に収めています。

 

 毎日毎日、僕がそこで灯明をつけて線香を立てお経を・・・・。

 

 まあそれでかどうかわかりませんんが、毎年「願い事」を預けてくださる人がいるのです。たいていは、一年経ってお返しすると「何を書いたか忘れている」のです。

 

 それを確認して、また今年分の「願い事」を書いて、届けてくれます。今年もすでに3人来ています。

 

 「七夕」が締め切りではありませんから、遅れてもいいので、皆さんも「願い事」書いて「全真堂」あてに、(おもてに「願い事」と書いて)送ってください。一年後の6月末に送り返します。

 

 病の人は多分「健康」のことを書くでしょうし、家族の悩み事の人は「家内」のことでしょうし、仕事のことなら「発展」と書くでしょうし。「平和」や「暮らし」の事などいろいろ「願い事」があると思います。

 

 まあ、イギリスのように「政権交代」というのもいいですね。

子ども達の将来を考えると「教育の根本改革」なんてものも書いちゃいたいです。

 

 僕は、当面は憲法9条の実行を願いにしたいです。

今日は初めてEARTHで「露木先生の自然観察会」をしました。

観察会は午前中でしたが、夕方までみんなの話題は「トンボ」や「ササ船」などの体験談でした。

 

 よほど楽しかったのですね。

 そのうち「子ども新聞」にニュースとして掲載されるでしょう。

楽しみです。

 

 自然の知的刺激は子どもの心にも大人の心にもとてもいい影響がありますね。

 

 自然を知ること・・・例えば名前を知っただけでも興味はできます。

 

 昨日の横浜のあんしん会でも「科学の進歩で、知らなかったことを知るよろこび」について語ってくださった方がいました。

 僕も今でも「子どもの科学」という雑誌を定期購読しています。ものすごく楽しいのです。この歳になっても。

 

 科学するということは人類の進歩とは関係があるようです。がしかし悪用することで便利快適高能率は曲がった方へ行ってしまいます。

 

 「自然」につて探求する心は「くだかけの人生科」にとってはメインテーマです。

 

 今日も露木先生には楽しくて刺戟的な「観察会」をしていただきありがとうございました。

 

 写真は全く関係のない、よそのうちの「ヤブミョウガの花」です。

はたらくことの教育的意味

 

 「まなぶ、あそぶ」と来たら次は「はたらく」ですね。

 

 ここで言う「働く」は労働や職業のことではなくて「教育」的な意味として「はたらく」という項目です。

 

 だいたいが子どもの頃に何か「お手伝いをさせられる」ということは大きらいですね。

 

 では、子どものはたらきというのは何にも必要がないか?というと、「はたらく」ことによって伸ばすことのできる能力があるということです。

 

 ですから、子どもの勉強時間の確保のためには、何のお手伝いもさせないという姿勢では問題がありますね。残念過ぎるのです。

 

 家庭という共同生活の場では、子どもと言えども何かしらの役割をもって「はたらき」を発揮することは大事なことです。そうすることによって自分の居場所が確保でき、あんしんに結びつきます。

 

 「お手伝い」でもいいのですが、できれば主体性をもって「はたらき」を発揮できるという位置づけがもっと大切です。

 

 

 「はたらく」ことで勉強の成績が上がるかどうかは分かりませんが、気持ちが積極的になれて頭も働くようになるのは確かです。

 

 働けない子は「どう動いてよいのかがわからない」ということですから、少しずつその役割を認識出来たら「はたらく」ことができるのです。

 

 「教育」の中で「共感する」ということを積極的に実現するのには、自分の「はたらき」を積極的に発揮して行けるようにするのがいいですね。

 

 自分勝手な大人が増えているのも現実です。(政治家だけでなく)

 

 口先だけで、ちゃんとはたらきを理解していないのですね。

 

 今日の「横浜あんしん会」で皆さんのお話を聞いていて益々「現代は『人生科』という人生の宿題が必要だ」と感じました。

 

 「トコトン人生科」はたった一行の項目でできるのですから。

全ての原点「あそぶ」こと

 

 昨日書いた「学ぶ」に続いて「あそぶ」ということの基本的姿勢が大いに気になるのです。

 

 「あそぶ」ということの何たるかを問わないで、ウカウカと楽しければいいということを求めているうちに、「欲望の満足」の質が低下して行くのです。

 

 今や子どもの遊びはすっかり「商業主義」に引きずられて「あそぶ」は「あそばれる」に変質しているのです。

 

 小さい満足に引き込まれます。

 

 「学ぶ」と同じように「教え込まれる」という受け身の姿勢を育ててしまうのです。「あそばれる」「あそばされる」という出来事に負けてしまうのです。

 

 では、本来の「あそび」はどんなんものか?人間だけでなく他の動物も「あそぶ」ことで育って行く能力というものがあります体や感覚・感性などなどの能力の基本で

 

 「あそべない」子、がわんさかできて来て、個人でも集団でも遊べないのです。

 これが社会の行き詰まりに通じていきます。

 生産性にも影響があります。

 

 道具を使う、人とうまくやって行く、体験を拡げて行く、行動する、成功の体験を活かす。そんな様々な能力が人間にはとても大切です。

 金だけ儲ければいいという世知辛いことになってしまい、その先の楽しみが描けません。

 

 実は子どもの遊びには何種類ものがあります。特にママゴトなどに代表される「ごっこ遊び」には大切な能力が潜んでいるし、「鬼ごっこ」などの種類には大切な伸びて行く能力があります。自然遊びや草花あそび、言葉あそび、など昔は何もなかったからみな工夫して「あそぶ」ことを創造していきました。

 

 今では機械のスイッチを入れたら「あそばしてくれる」ものばかりですから、どうしても「あそばれてしまう」のですね。

 

 できれば7歳ぐらいまで思いっきりいろいろと遊んでいたいのです。

 

 僕は「あそび損なって来た子達を、あそびで取り戻す人生」という視点でやって来ました。とても面白いことに、何歳からでも「幼児期のあそびから」取り戻す能力が存在しているのです。大事なことです。「あそぶ」能力は。人生が豊かになるかどうかのことですから。

 

 

学ぶという基本姿勢

 

 今の「教育」が大きく間違っていているのが「学ぶ」ということの基本姿勢です。

 「生活」の間違いでもありますよ。

 

 学びの基本姿勢は「よく見・よく聞く」です。

 実はそれは幼児期の生活に大きなヒントがあります。

 

人間の精神活動がどのような仕組みになっているのか考えずに、むやみに押し付けるので、「興味」「関心」を奪ってしまいます。

 

 子ども時代の「あそび」にヒントがあります。

 「あそび」についてはまた明日書きます。

 

 一つ大きな間違いは「知識教育の先取り」です。

 これは「できる」ということの間違いから起きてきます。

 

 「学びイコールできる」という間違いで、知識として先取りするのです。

 ほかの子より一歩でも先んじて「できる」を求めさせます。

 

 そういうわけで、基本的な「学ぶ」が「教わる」にすり替わってしまいます。

 

 せっかくの人生の出発点で大切な「学ぶ基本姿勢」が失われ、まなぶという積極的姿勢が受け身の「教えてもらう」というになってしまい、学校でももっとまずいのが塾などで「教わる」のを待つ姿勢ができてしまうのです。

 

 教わらなきゃあできない、と簡単に思い込みます。

 

 実は、興味を持って、いじくりまわして、「これって何だろう?」と時間をかけていろいろと学んでいく道を探るという楽しみがあるのですね。

 

 ちょうど、「おいしいものを食べたら、これってどういうふうに作るのだろう」と興味を持って調べたり、試しに作ってみたりする楽しみに似てますね。

 インスタントで、冷凍でできたものを食べるってのも簡単でいいのですが、楽しみの深さが違うのですね。

 

 実は江戸時代の日本は様々な多様性があって、学びがあふれていたという説があります。

 今の日本は残念ながら「学び」はずいぶん貧弱になっていると思うのです。

 

 今からでも遅くないから、心して「学ぶ心の基本姿勢」を見失わない教育を作っていきたいですね。

 

 今週は水曜日に「横浜あんしん会」に行きます。

 木曜日には「くだかけEARTH」で「露木和男先生の自然観察会」をします。

 

疲れたら休めばいい

 

 先日、本当に久しぶりに「くだかけ農園」の山で「野ウサギ」を見ました。

 昔は野ウサギもキツネもタヌキもよく見かけたのですが、すっかり見なくなっていました。その代わりシカやイノシシやムジナ(アナグマ)ハクビシンなどはよく出てきます。

そう言えば、ムササビも見かけません。

 

 人工林が大きくなって山全体の形が変わってしまったので、そのせいでしょうね。

  

 さて、僕もそうでしたが、不安だらけの若い頃に「努力」の方向が見えずに、疲れることを恐れて意欲のない暮らしをしていました。

 

 最近は「疲れることを恐れる」人が増えて、「昔の自分を見ているようだ」と思うことがあります。

 

 父から「疲れたら休めばいい」と言われて「疲れる前に『疲れちゃったら大変だ』と思って休んでしまう」という自分に気づきました。

 

 疲れる前に「疲れ」と取っ組み合いしちゃうのです。意識だけ疲れてしまいます。

 

 疲れるまで一生懸命やって、疲れてから休めばいいのだと知ってからは、かなり「やりすぎ」のこともありますが、それでも気持ちはいいのです。

 

 お金のこと時間の事を気にしすぎて「効率よく」しようとするから空回りして、疲れる前に「休んでる」ようなイキイキできない、何もしない、その結果引きこもっているというような人もいるのです。

 

 そんなわけで「疲れ」というものは、先回りして楽しようという負の空回りを避けていかなければならないのです。

 疲れるからって、はじめから何もしないというのじゃあ人生は始まらないのです。

親の会で「基本姿勢」の話など

 

久しぶりに写真を載せました。

 

雨が上がって、川の家のムクゲが一輪咲いたのです。たった一輪ですがうれしいのです。「ムクゲ」大好きですから。これから山の農園の畑のへりにたくさん何種類も咲きます。楽しみ。

 

今日は午前中は久しぶりに「親の会」をしました。

 

何となく僕も体調が戻って来て、ご参加の皆さんとゆっくりお話しできました。

元気になってよかったです。

 

1「くだかけの基本姿勢」・・・学校や社会をどうしたいの

 

2「個の尊厳」は互いを「尊ぶ心」

 

 3親子の距離感

 

 4生活教育の軸     そういうテーマです。

 

 しかし、ご参加の皆さんの悩み事などを聴いているうちに僕のポイントは「気」というものだということを話したくなって、後半で「気」についての話をさせてもらいました。

 

「気持ちが入る」「気合いが」「気分が」という発言からまとめてみたのです。

 

結局、僕はいつも、頭や知識を問題にするより「気の充実」をテーマにして来たのです。

 

そこを軸に「教育」の根本的見直しをとことんしてきたつもりです。

 

少し体調も戻って余裕ができてきたので、「とことん『気』の充実教育」「とことん教師道」「とことん人生科」なんて「とことんシリーズ」でも書いてキャンペーンしたいななんて欲張ってます。

七夕の「願い事」

 

 もうじき「七夕」になります。

 

 「七夕」と言えば「願い事」ですね。

 実はもう何十年も毎年「全真堂」という座禅堂で「願い事」をお預かりしています。

 

 と言っても最近はあまり広報していないので、数人分ですが。

 もちろん僕も毎年「願い事」を書いてお釈迦様の棚の下にある「願い事お預かりボックス」に入れてあるのです。

 

 さて、その「願い事」というのは、できるだけ自分勝手ではないないようで、できるだけ大きなものがいいなと思って書いています。例えば「戦争が早く終わりますように」みたいなものですね。

 

 「願い事」のご利益というのはどういうものかと考えたら、自ずと「今年一年、何を願ったらいいか」が出てきますね。

 

 面白いことに、みなさん「今年も叶っていました」というのですね。それはまた「叶う」ということがどういうことかとよくわかります。

 

 と、言うわけで「願い事」は多分自分一人のことというより、家族や仲間や世界や世間のことがいいのでしょうね。

 ところが僕は多分去年はかなり個人的なことを書いたように思います。

 

 数日後に取り出して皆さんに送り返して、また今年分の「願い事」を「七夕」に合わせてお預かりしますね。

 

 毎朝僕らが御経をよんでいますから、まあそれだけでもなんだかいい感じがしますね。

 

 明日、29日土曜日は「親の会」を10時から川の家でしますから、皆様お出かけください。

自分は何をしたらいいのか?

 

 「自分の本心はどこにあるのか?と他人ごとのような質問をして来た人がいます。

 

 「本心」て意外に難しいですね。ましてや、若い人が迷い道に入っている時に「自分の本心」は見えなくなってしまうのです。

 

 そこで、その人といろいろなお話をしました。

 

 だいたい、この人が引っ掛かっているのは「本心」どころか「感情」や「気分」なのです。そういうやり取りをしばらくしているうちに、思い出したことがあります。

 

 「ねえねえ、御用聞きって知ってる?」

 「知りません」と

 そりゃあそうです。今時「御用聞き」している商人もあまりいませんからね。

 それで、昔の商売の重要な「御用聞き」の説明をしました。

 

 「今時、ネットの時代に『御用聞き』ってかえって怪しまれそうですね」というのです。

 

 そこで、その人に「毎朝、自分への御用聞きをしたら」と提案しました。

 「ヘ~、何だか面白そう。『自分のご用は何ですか?』と聞いてみるのですね。自分に」

 

 ぼくだったら毎朝、自分に御用聞きしたら「はい。全真堂へ行って正坐です」というでしょうね。「その後は何ですか?」「洗濯干したら、朝食して、昼のお仕事の準備」と次々出てきます

 

 今日、相談に来た人はとても「自分への御用聞き」が気に入ったようでした。

 

 今日はくだかけEARTHの人たちは「田植え」に行きました。楽しそうですね。今年の田植えはこれで最後です。次は真夏の地獄の草取りが待っていますが。