79年前の7月1日から2日にかけての空襲で呉の市街地は焼け野原になり、2000人を超す市民が犠牲になりました。

 

3月から終戦までの空襲全体の犠牲者は3700人の市民が亡くなりました。

 

 

平和を願って、どうしても、保守重鎮のAさんとのやり取りを記憶に留めておきたいので書き残しておきます。

 

 

■Aさんからのお話

父の兄は、被爆し服は焼きただれ放射能を吸い込みながら、安浦まで60㌔メーターの道を歩いて帰ったそうです。

 

安浦海兵団の病院へ入院しましたが、2階から飛び降りると困らせたそうですがチョコレートのような血を吐いてなくなったそうです。放射能で内臓が溶けてとても苦しかったんだろうと、父が話をしていました。

 

赤紙、召集令状がもう一日遅かったら死なずに済んだのにと家族で悲しんだそうです。

 

戦争にくし、原爆にくし、人間はなんと馬鹿な生き物なのでしょうか?

 

人類以外の、動植物は人間の奴らがいなければ幸せに暮らせるのにと思っているに違いない。

 

 

■私からの返信

ありがとうございます。涙が止まりません。  

    

母も段原の猿猴橋あたりで電車を待っていて、暑いからと電信柱の陰に入った途端、ピカッと光って、気がついたら吹き飛ばされていて気絶していたそうです。

 

段原に家があったので、気がついて家に帰って、しばらくしたらタコ入道の様に腫れあがった真赤な顔で、広島商業高校で朝礼時に被爆した弟が返ってきたそうです。

 

その弟は(私にとってはおじさんになる訳ですが)原爆症(ふらふら病)になり、定職についても長続きがせずにヤクザな道に進み、家族を苦しめるという戦争、原爆で身も心も焼かれ、自暴自棄な生き方で、おふくろも親父も苦労したみたいです。

 

おふくろの母、私にとって祖母は看護師だったこともあり、やけどの子どもふたりに何もない中でも手当に頑張ったようですが、その当時、釘を踏んでずっと黒い傷跡が左足の裏に出来ていたそうで、晩年、その傷が黒色ガン(皮膚がん)となり、左足を切断しましたが、ガンで亡くなりました。

 

その祖母の死は、母の悲しみ、怒りは、原爆憎し、戦争反対、平和を守れという信念をより一層、強いものにしたようです。

 

その影響は少なからず、私にも影響しています。                       

 

あと2年半、任期と体力が続く限り、誰になんと言われようとも平和につながる道を求め、訴え、頑張りたいと思います。ありがとうございました。