広大な日鉄跡地に多機能な複合防衛拠点を整備すると突如、発表されました。

 

今日の午後から、防衛省による市会議員への説明が行われます。

 

もろ手を挙げて歓迎する市民もいらっしゃるし、軍都復活への危機感を持つ方もいらっしゃいます。

 

呉市は昭和20(1945)年3月19日から7月24・28日まで大きなもので6回も空襲にさらされて、焼け野原となりました。

 

その結果、多くの市民が犠牲となりました。

 

なぜ、6回も空襲されたか…軍備が整備された軍都だからです。

 

 

私の家の近く、和庄公園でも防空壕に入った市民のほとんどなくなるという悲劇が起こっています。

 

戦後、呉市は「旧軍港市転換法」(軍転法と呼ばれています)を制定し、払い下げをした軍用地に民間企業を誘致し、平和産業港湾都市として発展してきた歴史があります。

 

軍転法には、旧軍港市(横須賀市、呉市、佐世保市及び舞鶴市をいう)を平和産業港湾都市に転換し、市長及び市民の責務として旧軍港市の市長は、その市の住民の協力により、平和産業港湾都市を完成することについて、不断の活動をしなければならないと定めています。


今回の防衛省の提案は「多機能な複合防衛拠点を整備」は、戦前のような軍事都市に、歴史の流れを逆回転さすことになります。

 

 

抑止力ばかりが幅を利かせ、抑止力によって戦争への危険性がやわらぐのではなく、逆に戦争に巻き込まれる危険性が膨らんでいる事実を知る必要があります。

 

もうひとつ、多機能な複合防衛拠点を整備する防衛施設で呉市の経済活性化につながるのでしょうか。

 

昨日学んだ歴史を紐解くと…

 

1922年のワシントン軍縮条約で世界の列強が強調して平和をめざすなかで呉の海軍工廠は不況になり、7000人の従業員を解雇する事態となりました。

 

それから9年後、満州事変で大陸侵略の道を歩みだすと、1935(昭和10)年に日本はロンドン軍縮条約を脱退、軍艦建造が無制限になると呉は好景気になり、この年、呉の二河公園を第一会場に「国防と産業大博覧会」(3月27日~5月10日)が開催され70万人もの見学者が訪れたそうです。

 

つまり、戦前の軍事都市・呉は「平和で失業、戦争で好景気」という「人の不幸で栄える」というまちだったという事です。

 

その歴史の反省に基づいて生まれたのが、軍転法なのです。

 

軍転法が私たちに示している道筋は、愚かな歴史をくり返してはいけないという事ではないでしょうか。