インドネシアで、「デジタル・コーラン」が人気 | Kuantanのブログ

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ニフティのプロフィールサイト「アバウトミー」(わりと生真面目な出会い系サイト)で、「海外旅行から帰った彼女がイスラム教徒になっていたらどうする」という質問を作って流してみた。

返ってきた答えはほとんど、「即別れる」、「改宗するように説得する」など。イスラム教徒は棄教できないと思うんだけど・・・・。

全体的に宗教全般を「カルト」視している人が日本人には多いように思う。日本人らしいといえるが、日本以外の世界から見るとやはり異質な感覚だということは知っておいたほうがいいのではないかと思う。

そういう感覚の中から、なんかのはずみに「宗教」にはいっていく人が出ると却って即カルトに入る感じになりがちなのではないかという気がする。社会的にカルトとはされていない福音派などに入っていく日本人一世信者の精神状態はほとんどカルトと同じではないだろうか(福音派が社会的にカルトとみなされないのはたんにアメリカの準国教だからだろうが)。仏教でも、法華経系のカルトについてはあえて論ぜず、上座部瞑想のリトリート(とくにスリランカ系団体の)などに参加する連中や指導者もほとんど気分はカルトなのが多いように思う。

また、「死んだらどうなると思う」という質問に対する答えも、圧倒的に「無になる」が多い。

「死んで無になると断言できる人、怖くない?」という質問をあえて出してみても、「怖くない」という選択肢を選ぶ人ばかり。

こういう人たちは「無」ということの意味を本当に考えた上でそういうことをいってるのだろうか。

われわれが「知る」ということがすでに有に属するとすれば、われわれは無についてはまず何も知らない、つまり無は何も知らない世界なのだということが、知識やドグマと関係なく論理的に出てくるだろう。

だから合理的な考えをする者であればあるほど、「無になる」ってことは、それだけでまったく未知の世界に放り込まれていくことを意味することがわかるはずである。これが怖くないだろうか。

また、無というのは絶対的な無でなければならないだろう。「中途半端な無」というのは論理的にありえない。だから、無というのはつねに「遡及的に無」を意味する。過去にいっときでも存在したといえるものは、そういえる限りで、無ということはできない。したがって、われわれがいま存在していることを認める以上、われわれは無を受け入れることは論理的にできないはずである。

彼らが「無になる」と即答し「怖くない」と断言できることこそ、彼らが洗脳されているドグマに基づくといえるのではないか。

こういう唯物主義的死生観が日本の文化だったといえるのだろうか。やっぱり、これこそ戦後の唯物主義洗脳教育の成果にほかならないのではないか?

戦後レジームを本気で変えたいなら、こういうところからやらないとあまり意味はないのではないかという気がするが。
   

9月21日18時26分配信 ロイター

[ジャカルタ 21日 ロイター] インドネシアの首都ジャカルタのオフィスで働くMiraIndriartiさんは小型のイヤホンに薄型の携帯プレーヤーを持ち、ほかの音楽好きの若者と同じように見える。しかし実際に聞いているのは最新ヒット曲ではなくイスラム教の聖典コーランだ。
 世界で最も多くイスラム教徒を抱えるインドネシアでは、この「デジタル・コーラン」の人気が上昇。特に信仰心の高まるラマダン月(断食月)には、コーランを再生するプレーヤーがよく売れるという。 
 Indriartiさんは、より良いイスラム教徒を目指してコーランを学ぼうとこのデジタル携帯プレーヤーを購入。コーランをどこでも聴くことができると利点を述べる一方、「バスの中でコーランを読んでいると周りの乗客が驚いた様子で見ることもあるので落ち着かない」と語った。
 「iPod」と同じサイズのこのプレーヤーには、インドネシア語訳の付いたアラビア語の全文に加え、音読されたものが収録されている。愛好家らは、従来のかさばる印刷版とは違う、持ち運びやすい代替品を歓迎している。
 デジタル・コーランを販売しているAriefSyaifullahさんはロイターに対し「今月の売り上げは好調で、1日平均50個売れている」とコメント。インドネシアのイスラム教徒が宗教活動においてハイテク化しつつあると指摘し、メッカ巡礼の際にもコーランを復唱できるこれらのプレーヤーを携帯すると述べた。


インドネシアでバスに乗ると物売りがコーランの額みたいなのを押し付けてきてうざくてしかたがないんですが、コーランを読んでいると驚かれるのだそうで。