今回は、第11次派遣でのつぶやきを紹介させていただきます。



私は、昔(震災前)は箱崎に住んでいたけれど、今箱崎に行くと怖くていけない。あの曲がり角が怖いの。震災前は陸だったのに海になってるの。
(2012.11.23 鵜住居第2D仮設 70代女性)


明るいおじいさんで、ジョークも言いつつ楽しくお話されていた中で、津波の話になったとき「ショックすぎるから、あまり深く考えないようにしている。」
(2012.11.23 鵜住居第2D仮設 87歳男性)


娘さんを津波で亡くしてしまって、一人で住んでいらっしゃった。「どうせなら一緒に流されてしまいたかった」「むしろ代わってあげたかった」「あなたはお母さを大切にしてあげてね」とおっしゃった。
(2012.11.23 関谷担い手仮設 70代女性)


(実行できるかどうかは別として)「復興のプランを示してほしい。目標がないとどう暮らせばいいのかわからない」
(2012.11.23 鵜住居2D仮設 73歳男性)


「街の復興は時間がかかる。それよりもまず金を稼げるようにしてくれ。」
(2012.11.23 鵜住居2D仮設 60代男性)


「戦争のころと比べたら被災しても物資に困らない。外国からも物資が来るなんて。」
(2012.11.23 関谷担い手仮設 80代女性)


65歳の定年まで30年間ヤマハのピアノ教室で営業事務の仕事をしていた。そこでは生徒のお母さんたちと教室の生徒たちとのパイプ役としていろいろ相談に乗ったりしていた。仮設でもやっぱり人間関係って大事。誰かが困っていたら相談に乗ってあげないと。
(2012.11.23 関谷担い手仮設 80代女性)


津波が来た時は本当にひどかった。役場のほうでは火災も起きて、車がドンッバンッと爆発していった。私は青少年の家のほうに避難していて、体育館で生活をした。1日おにぎり1つ配られるだけで、(飲み物もなく)本当に飲み物が欲しかった。
(2012.11.23 関谷担い手仮設 70代女性)


「何もやる気が起きない。今まで出来ていたことができなくなった。やり方を思い出せない。」
(2012.11.23 赤浜第3仮設 70代女性)


津波が来たとき足をぐねらせて誰かに立たせてもらった。その人がいなかったら波にのまれていた。その足は捻挫したと思っていたが、実は2か所骨折していた。昨年仮設にしたときは(体育館から移ってきたので)仮設の寒さなどは感じなかったが、今年は仮説の生活にも慣れてきて寒く感じる。
(2012.11.23 赤浜第3仮設 60代女性)


あと10年早く津波が来ていたら私はまだ70代だったから自分で働いてやり直せただろうけど80代で津波が来ちゃったからね。病気にもなっちゃったしもうだめだわ。
(2012.11.23 赤浜第3仮設 80代女性)


東京に支援のプロジェクトで行ったとき「福島の人が岩手に住むくらいなんだから岩手はもう大丈夫でしょう?」と言われて、風化したのか、もともと興味がなかったのかわからないけれど、寂しいなと思った。神戸や長野の人は、震災が起きたとき、すぐにボランティアに来てくれた。経験した人は関心の度合いが高い。1,17のとき支援物資を送ろうとしたら突き返されたけど、意地でも送っておけばよかった。人ってやっぱり暖かいですね。
(2012.11.23 船越第3仮設 20代女性)


津波は忘れたうちにやってくると言うけど、自分は忘れないうちにやってくると思う。
(2012.11.23 鵜住居第2D仮設 80代男性)


挑戦することに意味がある。やってみることに意味がある。
(2012.11.23 鵜住居第2D仮設 60代女性)



発達科学部2回 木嶋恭子