Terry Jones (TASCHEN)
何に乾いているのだろう。何を見つめているのだろう。
何と闘ってきたのだろう。(『たかが服、されど服 ヨウジヤマモト論』)
わずか数ヶ月前に発表した己の権威を、わずか半年後には過去のものとして或いは遅れたものとして自ら唾棄し、葬り去ってゆく世界で彼が闘ってきた相手とは何だったのだろう。
「モードとは無秩序に変えられるためにある秩序である」と言ってのけた哲学者がいた。
「各人にとってもっとも遠いもの。それは己自身である」 そう、ニーチェは言った。
哲学は、いつの世も、最後の最後で逆説的な語りを人々に聞かせてきた。
「服は第二の皮膚である」 こう言う時、人は自らの皮膚の延長として服を捉えている。
しかし、自動車が人間の足になったように、テレビが人間の目になったように、服も、人の皮膚になってしまった。
皮膚を保護するものとしての衣服が、つまり皮膚の代わりとしての衣服がまるで皮膚のように働いている。
服も逆説に満ちた存在である。
逆説性という媒介項で哲学と服は結びついてしまうのではないか。
モードとは、時代の先端の流行のことだ。それは世界のありとあらゆるものを呑み込んできた。旅客機からクレジットカードまで、烏龍茶から電気スタンドまでおおよそモードと無縁のモノを探すほうが難しい。
その中でも、ファッションはモードの変換に律儀でありすぎた。
そのせいだろう。
モードという言葉は、ファッションの代名詞にさえなっている。
川久保玲、山本耀司、三宅一生。
この3人が紛れもない日本モード界の巨匠たちである。
常に時代の空気を読み、先端を突き詰めて、そして時代の徒花或いはその挽歌に命をかけてきた人たちだ。
時代の囚人。ファッションの囚われ人。le prisonnier.
しかし、ギャルソンやヨウジの服を見てると、途方もなく先端から離れたところで服を作っているように見える。
”Live free with strong will”
もういいわ。モードから降りるわよ。
ギャルソンの服が、そう言っている。
すねて、ふてくされ、不器用で下手くそな生き方しかできないくせに、何故かまっすぐな男。
モードなんて関係ねぇよ。俺は時代の先端になんか居たくないね。
そう言ってヨウジヤマモトの服はモードから翔破するように飛び降りる。
しかし、モードと戯れることをやめ、モードから「イチヌケ」したその場所が、まさに時代の最先端であったという逆説。
知的で、不良みたいで、心を開くことで閉じ、アイデンティティを崩すことで保ってきた男の制服が、yohji yamamoto
誰でもない。〈可能〉が存在する遥か以前に、〈不可能〉が存在する遥か彼方にヨウジヤマモトの服は横たわっている。
私が生まれたところよりもっと遠いところ、そして私が死ぬところより限りなく遼遠の場所へヨウジの服は連れて行ってくれる。
本来、ファッションは女性のものである。
ヨウジの服を着た女性はどうか。
アランの言葉を引いてみたい。
「務めを護り、恋情に打ち勝とうと自分と戦っている女が、どうしてまさにそのことゆえに男にはいちばん危険な手くだを持った女に映る。不幸とは実にそのようなものなのだ」
「どうせ男なんて・・・」と世の男性に嗤笑を向け、実はその内実恋慕の情と闘う女。
国籍不明・性別不明・職業不明・住所不定
ただ分かるのは、〈彼/彼女〉が〈彼/彼女〉であることを拒んでいるということ。
時代を越えた無国籍感覚。ヨウジヤマモト。
〈不自由〉であることから最も隔たったヨウジの服でさえ、しかし、〈自由〉という鎖に縛られているという逆説。
自由こそが退屈と言わんばかりの”REGULATION”
そして私は裸の王様。