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ACIDMAN LIVE TOUR「ALMA」@ZeppOSAKA

昨日は久しぶりにZEPPOSAKAへ。ACIDMANのLIVE。

今回のアルバムは「ALMA」。
ツアータイトルもアルバム名にちなんでいる。
「宇宙」「生命」「祈り」、11篇の魂の叫びで綴られた8thAlbumのコピーの通り、
シングルを集めた商業的なものというより、
一本筋の通ったアルバムになっている(「andworld」のような)
ALMA/ACIDMAN

¥2,800
Amazon.co.jp

18:30からの開演で到着したのが18:25。危なかった。
LIVEはいつもアルバムのインストに乗って、
ひとりづつ登場して・・・、という具合だが今回は手が込んでいた。

インスト「最後の国」が始まると、
ステージに下ろされた真っ白な弾幕。
そこに花や木々など美しい自然の写真ものが映し出されて、
ACIDMAN LIVE TOUR「ALMA」から始まり、
「vo.Nobuo Ooki」・・・とメンバーの名前が、
まるで映画のキャストのように現れてくる演出。

ひょっとしてBRAHMANのように後ろからバックライトを当てて
くるかとおもっていたら、まんまきた。

白い弾幕にうつる3人の影にすでに興奮のオーディエンス。
トーン!と弾幕が落ちて、「風が吹く時」で開演。

例のごとく、流れは覚えていない。
アルバム以外の曲も結構演ってくれた。バックスクリーンの映像も冴えていた。
「赤橙」「ある証明」「CARVE WITH HE SENCE」
「飛光」「FREESTAR」「式日」「Under the rain」、
インストは「water room」、アンコールで「シンプルストーリー」など。

個人的には「DEAR FREEDAM」をはじめて生で聞いたがいい曲だと再確認した。


行ってよかったと思えたのは、
大木がALMA望遠鏡(※1)を使って撮った写真の話あたり。

観測できていないだけで宇宙には何億、何兆のまだ見ぬ星があって、
その中で生きていること、
そして顔も名前も知らないけどこうしてひとつの空間に集まって、
ひとつのものを共有・共感することは素晴らしいことだ、と。

そのくだりの後に聴いた「ALMA」。
鳥肌がたつとともに、
それまでは「先行シングルのひとつであり、アルバム名と同じ名前の曲だった歌」という認識から、
大きな意味と力を与えられて、自分の中で大きく成長する。


ふっと何かの折に「ALMA」をIphoneで聴けば、
日常の小さい事や喧騒なんてとるに足りないことだ。
と少しでも思えるのではないか。そんな気分になった。
行って感じていなければ、
その視座に出会えることはなかったのだから。

まとめにかえて、
今回も期待以上のライブだったが、
ACIDMANがチリ・ボリビアでインスピレーションをうけ、
素晴らしいアウトプットをして成長しているのを目の当たりにし、
自分も何かアクションをしてそれを何かに変えていけるような事をしたい、
いやしなければならないな、と思った。

ちなみにラスト、「廻る、巡る、その核へ」を久しぶりに映像つきで見れた。
圧巻だった。

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(※1)
アルマ(ALMA)とは、
アカタマ大型ミリ波サブミリ波干渉計(Atacama Large Millimeter/submillimeter Array)の略称。
東アジア(日本が主導)・北米・ヨーロッパ・チリによる国際プロジェクトとして、アルマ望遠鏡計画が現在進行中。直径12Mの高精度アンテナ50台と「ACAシステム」と呼ばれる高精度アンテナ16台を、チリ共和国北部にあるアカタマ砂漠の標高約5000メートルの高原に設置し、ひとつの超高性能な電波望遠鏡にする計画。2002年から建設開始、2012年本格運用開始予定。
アルマ望遠鏡は、すばる望遠鏡やハッブル宇宙望遠鏡の約10倍の性能を誇り、太陽系や銀河系、生命の起源となる鍵となる有機分子などの生命に関連した物質など、...光の望遠鏡でとらえることのできなかった暗黒の宇宙を観測する事が可能。
略称の「アルマ(ALMA)」は、チリの公用語となっているスペイン語で、「こころ」「たましい」「いとしい人」を意味する。

※過去のADIDMANにまつわるエントリーはこちら
 ・ACIDMAN「Life」(2008/04/19)
 ・ACIDMAN LIVETOUR "LIFE"@Zepp Osaka(2008/07/06)
 ・ACIDMAN「A beautiful greed"LIVE TOUR」(2009/11/08 )

【書評】一刀斎夢録を読んだ(後編)

新撰組が「志」を全うしようとしていたこと、仲間を思いやる「義」の精神。

それを象徴としての旗文字「誠」。


「生」と「死」のギリギリの世界を崇高な「誠」の精神で邁進する。


やっと新撰組の作品や先述の「壬生義士伝」が支持を受けているか、

この本を読んでとてもよくわかった。

今、彼らのように強く美しく生きる事は難しい。


感じ方は人それぞれ差はあるのは当然だが、
本・映画・テレビほか採用する視座はなんであれ、
「新撰組」というまとまりに触れると、

その時は胸が躍ったり、悲劇に涙したり、

自分とのギャップに落胆してしまったりしていく中で、

得るもの、忘れたくないもの、

に出会わせてくれたり、リマインドをしてくれるからかもしれない。



なにを隠そう、自分におきかえれば、

そんな高尚な精神、勇気なんてひとかけらも持ち合わせていない。

「誠」でありたいと思いつつ、時折言葉にもしつつ、

本質的にはメンタリティはまだまだ「誠」ではない、と思う。

それは致し方の無いこと。


けれど、以下のように願ったりもする。


本書で感じた「かくありたい」がその場の希望で終わってしまうのではなく、

いつか「かくなりしか?」という自問自答の習慣へと形作られ、

生活の中で、仕事の中でわずかばかりでも

前進するエネルギーになればいい、と。


ん?全然「一刀斎夢録」の書評ではなくなってしまっている。

(色々書くとネタバレしてしまうのでちょうどよいかも)

それはご容赦頂くとして、最後に一番感銘をうけた節を。


力を蓄え、技を身につけるために最も肝要なるものとは何じゃ。

そう訊ぬれば百人が百人、努力精進にほかならぬと答えるであろう。

しかし、わしはそうとは思わぬ。

努力精進よりも肝要なものがある。


それは、渇えじゃ。


いつしかかくありたしと願いながらも、

努力精進すらままならぬ貧乏人はひたすら飢え渇するほかはあるまい。

その拠るところも捉むものもない飢渇こそが、

やがて実力となり技となる。


持たざる者ほど、持っておるのだ。


水も肥も与えられずに、

それでも咲かんと欲する花は、

雨を力とし、風すらも肥とする。

そうしてついに咲いた花は美しい。



今、自分は努力精進ができないわけでもない。

一応食べていくだけの経済力はある。

それでも満足は全然していない。


今の自分に足りないものは、ここで言われている「渇き」。


とすれば、「渇いている状態を(現状)認識するちから」が足りない。

あるいは、目を閉じているのかも。楽だから。


無理やりかもしれないが、

またジョブズの「stay hungry、stay foolish」を連想、紐付ける。


上だ、上。

肩書きとかネームバリューとかではなく、自分にとっての「上」を向いて歩こう。

ま、そんな風に色々自分はこの本を読んで考えた。

十分エンターテイメント性もあり、ドラマティックな展開にきっと涙する方も


超おすすめしたい。

【書評】一刀斎夢録を読んだ(前編)


こてブロ-一刀斎夢録 こてブロ-一刀斎夢録


浅田次郎の「一刀斎夢録」を2月中旬に読了したので、軽く書評を。


特設サイトはこちら

http://bunshun.jp/pick-up/muroku/


日経の朝刊でこの本の広告が出ていて、

そのキャッチコピーが

―正確には覚えていないが、「男は死に場所を求め・・・」的な―

とても胸にグッときて読んでみようと思った。

最近経済小説とか仕事関係のビジネス本ばかり読んでいたので。


浅田次郎の本も初めてだし、新撰組の本をちゃんと読むのも初めてだった。

後々しらべると「壬生義士伝」という作品もかなり愛読されているようで、

自分自身も周囲の人から「壬生義士伝は読んだほうがいい」とレコメンされた事もかなりあった。

そうゆう意味ではしかるべき時がきていた、のだろう。


新撰組との関与は、振り返ると至極間接的だった。

坂本龍馬関連の作品をみれば必ず出てくるし、

年末の時代劇の「田原坂」「五稜郭」「白虎隊」なんかは、

子供ながらにウルウル涙を流しながら観たが、そこにも出てきた。

知っている隊士は近藤勇、土方歳三、沖田総司Kらい。

「るろうに剣心」にも出てたか。


あんなに勉強した幕末維新の時系列も少しあやふやなくらい、

それくらいまっさらに近い状態で読めたからかもしれないが、

もの凄いインパクトのある本だった。


大正時代。

新撰組三番隊 隊長だった斎藤一の元を梶原中尉が訪ね、幕末維新の頃の話を・・・

という形で本書は進んでいくが、

それが本当に斎藤一と酒を酌み交わしているかのような錯覚に陥った。

遥か昔の話なのに、どうしても琴線に触れ「覚えておきたい」と感じる節がたくさんあった。たとえば、


その苦労をけっして看板にしてはならぬ。

二度と口にするな。

苦労は口に出したとたん身につかず

水の泡になってしまう。身につけよ、よいな。


現実を見つめればその乖離の大きさにため息がでる。残念ながら。

それからこんな一節。



くやしがるだけでは人は堕落する。

そのくやしさの根源を考えよ。

理知が感情に先んじてこそ、人は成長するのだ。


これは現代、いや未来にも通じる処世訓だ。


そんな事を思いながら、心が揺らいだ節をtwitterを活用してしたためていった。

自分の記憶力なんて全く当てにできないし、していない。

ならば、なんども繰り返し見て、頭の中で読んでまず頭に刻み込む。

そして初めて無意識の領域に作用して、

行動にうつせるものだと思ったので、そうする事にした。


ただ物語を読み進めて何かしら感情が揺らぐが、

読み終えたら少しづつ忘れてしまう。

そんな風に終わらせたくない、と思ってしまう。

いや、

終わらせてはいけないムードが

ページをめくっていくにつれ漂ってくる。

そんな本だったと思う。(続く)

【仮】一刀斎夢録 語録

勝負は一瞬だが、

その勝負の場に至るまでのかけひきが長い。

すなわち最後に物を言うのは腕前にあるにせよ、

その腕前を十全に発揮するためには、

勘と知恵と胆力とをすりへるほどに使うて、

かけひきをせねばならぬ。


剣の技術とは、


そうしたすべての力の綜合をいう。

いかに腕がたとうと、鈍感や馬鹿や臆病者は死ぬ。


気合が足らぬの、気合をこめろだのひとかどの達者は教えるが、

わしに言わせれば気合の入った剣は悪達者というものじゃ。

尋常の勝負であれば、たしかに気合は必要だが、

くどく言うように尋常の勝負なんてそうあるものではない。


わしらは寛容ではなかったが、けっしていいかげんではなかった。

マアマアと得心せぬわしらの気性を文字に書けば、

さよう、 「誠」一字の旗になる。


剣の奥義は流派によりそれぞれ異なるが、

いずれもつまるところは、「誠」この一字に如くはなしであろう。

みなその通りに生き、その意のままに死んだ。

みながみな、剣そのもの、であった。


昔の侍ときょうびの軍人のちがい、

なかんずくに昔の男ときょうびの男のちがいはそれだ。


勝負は汚いほうが勝ちゆえ、

むしろ気合を悟らせぬことが、肝心なのだ。

気は剣のみに宿りて、人には見えず。 居合術の極意じゃの。


しかし短慮短気も悪いことではないぞ。

いくども申しておるように、

剣は何よりも先手必勝じゃからの。


軍隊とは命じ命じられて動くものだが、

それだけで戦に勝てぬ。

任せ任せられて戦うことこそ肝心だ。

任せよと口にしたからには、

およそ思いつく限りの最上の戦果を挙げねはならぬ。


だいたいからして、

あれやこれやと打ち合わせねばならないのは、

大した仕事ではあるまい。

ひとつの目的に向こうて発心すれば、

とは気と剣と体とを一途に尽くすのみ、

いかほどの考えることがあろう。


おぬしの率いる部隊は、情を欠いてはおらぬか。

部下では無しに、わが子弟たりと思い定めねば、

兵は育たぬぞ。


勝ち戦には意外がない。

思うた通り、策の通り、命令通りにことが運んでおれば勝ち戦じゃ。

ゆえに、味方が勝っておるときははっきりそうとわかる。

兵のひとりひとりが、ああこれは勝ち戦じゃとわかるものなのだ。

しかし敗け戦には諸相がある。

周囲に思いがけぬことが次々と起こる。

前線の将兵には戦の大勢などわかるはずはないが、

予期せぬ動きが周囲に見えたなら、

まずこれは敗け戦じゃと思うてまちがいはない。


剣というものは、畢竟。斬るか斬られるかだ。

おのれが斬られずに相手を斬るためには、

さまざまな工夫をしなければならない。

それを卑怯というてどうするね。


斬られたあとに卑怯じゃと言える者はおるまいよ。

斬ったが勝ち、斬られたが負け、

他には何もない。


わしは天下の偏屈者じゃが、

そうした縁については、その人となりを知るか知らざるかにかかわらず、

命を賭してきた。

かような生き方を偏屈じゃとそしる世の中など、くそくらえじゃよ。

まあ飲(や)れ。


指揮官というは、なかなか難しいものじゃて。

采配の上手下手よりも、時として当人の立場が戦の帰趨を決めてしまう。

御大将のまとっておるさまざまの因縁が、

たちまちあからさまになるのが戦場というものじゃ。

そして、その因縁は兵たちひとりひとりの運命となる。


役立たずが急に働き始めたときは、

何かしら下心があるものだぞ。覚えておいて損はない。


もし男と男の間に、男女の思慕と同じほどの紐帯がありとすれば、

それは命のやりとりの他はあるまいて。

ゆえにわしは、沖田がわしに斬られずに死にゆくことが、

無念でならなかった。


苦労は男子の本懐だが、その苦労をけっして看板にしてはならぬ。

二度と口にするな。

苦労は口に出したとたん身につかず水の泡になってしまう。

身につけよ、よいな。


風流を知らぬ剣は相手に読み切られてしまう。

いかに腕が立とうと、欺計なき剣は敗れる。

竹刀ならば残念無念ですむが、真剣の斬り合いではその声すら出せぬわ。

すなわち、剣士たらんとする者は道場の外で風流を学ばねばならぬ。

相手を欺いたり往したり、思いもかけぬ動きなどを風流によって日ごろから涵養するのだ。


さよう。剣の奥義は一に先手、二に手数、三に逃げ足の早さ。


男子の労苦は負けだけじゃ。

勝ち負けのほかに、こだわるべきものは何もない。

ゆえに、負けて生き延びた記憶は生涯おのれを苛む。


玉砕するも甎全をはず、というは男子たるものの気概じゃの。


負けを知らねばいつか大負けするぞ。

よしんば勝ち負けをくり返したところで、

人間のおつむは便利なじゃによって悪い記憶を消してしまう。

勝ち戦ばかりを覚えておることになる。

そしておのれの実力を見失い、増上慢となる。


軍が負けておらぬのなら、せめておのれの負けを心にとどめよ。

ささいなあやまちやまちがいもよく記憶せよ。


力を蓄え、技を身につけるために最も肝要なるものとは何じゃ。

そう訊ぬれば百人が百人、努力精進にほかならぬと答えるであろう。

しかし、わしはそうとは思わぬ。

努力精進よりも肝要なものがある。

それは、渇えじゃ。

いつしかかくありたしと願いながらも、

努力精進すらままならぬ貧乏人はひたすら飢え渇するほかはあるまい。

その拠るところも捉むものもない飢渇こそが、やがて実力となり技となる。

持たざる者ほど、持っておるのだ。

水も肥も与えられずに、それでも咲かんと欲する花は、

雨を力とし、風すらも肥とする。そうしてついに咲いた花は美しい。


ちなみに、始末におえぬ将には三つの形がある。

第一におのれの功をあせる者。

第二に死に急ぐ者。

第三に思慮の足らぬ者じゃ。

かくあるべし、などという理想はどうでもよい。

その三点について、かくなかりしか、とおのれを疑え。


和戦両がまえの戦は必敗じゃ。

そのような気構えでは、和したところでろくな結末を見ず、

戦えば必ず負ける。

ころあいのところで和する作戦などあってはならぬ。


落ちてしもうた陣は潔く捨つるというが、戦の定石じゃよ。


敗勢とはいかんともしがたいものじゃ。

勝負は時の運とは申せ、

緒戦に敗れていったん風下に立つと、

挽回をなすはなかなか難しい。

謹賀新年

新年あけましておめでとうございます。


どうぞみなさまの新しい年がよい年でありますように。


本年もどうぞよろしくお願いいたします。


2011年はしっかり更新していきたいと思います。