占い師をしていると、しばしば聞かれることがある質問
「龍司さん、僕は何のために生きているんでしょうか?」
「私はどうしてこの世にいるの?」
或いは、
「俺はこの仕事をするために生まれてきたんだ!」
とか、
「私は彼と結ばれるために生まれてきたの!」
などなど
人生のそれぞれの場面でなさなければならないこと、ひいては人生そのものを賭けてなすべき
「大義」
を見出せる人はとっても幸せそうです
しかし、この大義に関しては運命的な要素を多分に含んでいるとはいえ、必ずその人でなければならなかったかというとそうとも言い切れません。
強いて言うなれば「確率」の問題でしょうか。
タロットや占星術などの西洋の魔術に関係した占術を使うのなら運命というものに支配されるということは矛盾をはらむことになります。
何故ならもしも運命が確定しているなら占い師がアドバイスする必要性が全く意味をなさなくなるからです。
例えば明日忘れ物をする事が確定しているとして、「明日は忘れ物をしそうだから気をつけてね!」と言ったところで必ず忘れ物をするなら全く無意味でしょ?
少し話が逸れました
でも大義にせよ、その時にするべくして備えられたことにせよ、それは生きている上で与えられるタスクでしかありません。
もしかして前提が間違えているのでは…
と考えた時にふとひらめきが降りてきました
人生の意味は「存在」すること!
なのだと。
我々が存在することというのは我々の活動においての大前提となります。
存在なくして為すべきことも大義も存在しないのですから
存在することが目的であるからこそ、よくスピ系の人が好んで言いたがる、
「あなたが存在することそのものが尊くて価値あることなのです。」
という言葉が意味を為すのではないでしょうか?
だとすれば「大義」は我々が存在しているからこそ起こる結果だということになります
これまで多くの人達が思っていたであろう「人生の意味」とは何かを為すこと、これは実は結果でしかなく、人生の意味とは我々が存在するということです
このことを友人と話していたら、
「それって母親が子供が生まれた時に思うことだよ。」
最近は親が平気で子供を殺す時代ですからみんながみんなそうじゃないかもしれない。
ですが、ほとんどの親がそう思うということは、これこそ純粋な親の愛ということ。
いや、仮に親がそう思わなくても
「すべからく誰しも生きる意味そのものが愛の中にある」
ということになりませんか
だとすれば
存在そのものの存在理由は「愛」
なのですよ
カバラーと言えば魔術というイメージがあるかもしれませんが、最終目標は神との合一です。
この辺は万国共通の瞑想を通して得られる神秘体験と同じかもしれません。
キリスト教/ユダヤ教の神の名とは母音を持たない古代ヘブライ語の発音が不明なために「ヨッド へー ヴァヴ へー」というヘブライ語のアルファベットで表記されたり、「テトラグラマトン」「聖四字」、或いはヘブライ語のアルファベットを英語のアルファベットに置き換えて「YHWH」と言われたりしますが、旧約聖書の創世記によれば、
「私は在る」
という名前だ、と神様(ここでは三位一体の神、父と子と聖霊のなかの父なる神)が名乗っています。
存在そのものが神だとすれば、全ての存在の中に神がいるということになります。
石や木、水、火、空気、動物、そして我々の中にも。
これは大きく分けて三種類あるカバラーのうちのヘルメティックカバラー、或いはマジカルカバラーと呼ばれているもののセフィロト(生命の樹)の図ですが、ホドとネツァクのすぐ上にはヴェールがかかっていてティファレトには簡単にはいけないそうです。
通常の人間が行けるのはティファレトまでと言われています。
さらにケセドとゲブラーの上には深淵があってこれまた上にはなかなか上がれないそうです。
この上というのは俗に言う「無我の境地」で、そこに行くのは至難の業であり、ほぼ不可能です。
何故なら無我の境地に行こうとするということはそこに何らかの欲が絡むからです。
行こうとしていること自体が欲になっちゃいますからね…
さらに上ばっかり求めていると上に行くどころか下がっていきます。
よくスピ系の人が、
「天使がさあ、」
「神様がさぁ、」
「仏様がさぁ、」
と言っていたり、
新興宗教の教祖様のほとんどが、
「私は神の世界を見た/神との合一を果たした/私は神だ」
とか言ってるのは下から二番目のイェソドの話です
何故ならイェソドはイメージの場所だからです。
まだスピ系信者が天使だの悪魔だの言ってるのはマシです。
これに関しては妄想である場合も多々ありますが、ある特定のエネルギーを視覚化して自分の知ってる神仏としてイメージングしている場合もあるからです。
最近は新興宗教の教祖様でなくても神だの女神だのを名乗りたがる人を多く見受けますが、もしも楽しいから、だの他人よりも優れた存在であることをアピールするために名乗るなら人として論外です。
何故なら神性は誰の中にも、いや、全ての中に存在するのだから。
ましてや神性や魔性、清濁合わせもった偏りのない存在としての「人間」。
それだけでも素晴らしい存在だと思いませんか?
人に限らず、それぞれ存在するものは存在するだけで価値があるものなのです。
それを人という存在のもつ素晴らしさを貶めて人の身であるにもかかわらず、自らを神とすることは、愚かな行為以外何でもありません。
それは自分のコンプレックスの裏返し。
人として生まれたからには人としての役割があるわけで。
仮にカブト虫に考えられるだけの知性があったと仮定して、ある一匹が「俺、人間になったぜ!」と思ったとしても、カブト虫はカブト虫です(笑)
それらとは別に、女神や神を名乗る人で、自らの神性を忘れずに、ストイックにそこを追求しておられる方もいます。
こういう人達とは天と地ほどの差があります。
さらにこの世の生活を捨て、ストイックに神を追求している人、こうなるとバランスを欠いてしまいます。
まあ最近のスピ系信者がよく言う
「高次のパワーを〜」
とか
「パワフルな存在がぁ〜」
とかはイェソドに囚われてしまってるので全くもってお笑い種ですが。
高次だけを求めて低次を疎かにするとどうなるか?
それは砂の上にコンクリートでしっかりした基礎を築かないままタワーマンションを建てるようなものです。
まあ建つ前に倒壊するでしょう。
或いは万が一、低次の事がしっかり整ってないのにいきなり高次の存在が来たら…
それはまるでカカシの上に大岩が降ってくるようなものです。
低次は高次のものを支えるため、高次は低次に支えられることで存在しえる。
先程から特質上イェソドが悪者のようになっていますがそんなことはありません。
ケテル〜マルクトとそれに繋がるパスの全て、不要なものなど何もない。
全てはバランスなのですよ。
そして人としての存在している我々は人としての存在を全うしてから流転すればいい。
万物は流転するのだから。
人として生き、人として生を全うし、そして死ぬ。
あとは存在することを目的とする中で起こることを一つ一つ歩んでいくうちにいつしか与えられるであろう大義を果たせばいい
ありがとうございました!