幕末の 福岡藩 歴史秘話 犬鳴御別館跡
福岡藩の犬鳴御別館 は 幕末の元治元年(1864)5月に犬鳴谷周辺の調査に当たり、7月から工事が行われました。 これは 当時の福岡藩の福岡城は海岸に面しており 国内・外に対する防備に不都合であったため 有事に備え藩主を守るために 築かれたもので 犬鳴の山峡の天然の要塞の場所 として 福岡藩 家老職で筑前勤王の主格 加藤司書 によって選定されました。
しかし、 当時の世の中は 勤王派と佐幕派が 同じ福岡藩の中でも確執があり 「犬鳴谷御別館築造の事件」 が発生します。 勤王派は、五卿を立て九州の勤王派を決起させるため 福岡藩主 黒田長溥 を別館に幽閉し 子長知を 擁立することが 佐幕派にもれる ということになり 加藤司書は 冤罪と断言しますが 慶応元年(1865)勤王派への弾圧で 加藤司書は切腹となり 福岡藩と勤王派は 新しい時代に取り残 されてしまいます。
現在の犬鳴御別館は、 県道21号線より犬鳴ダムの一番奥の北方約2 .5Kmの深い谷を登ると 回りを山に囲まれた 要塞の地ではありますが 犬鳴ダムや 周辺の道路の無い時代には幽閉の地で 深い山奥の地に御別館・ 石垣・ 水路の 犬鳴御別館 で別館西側に 日原鉄山を 築き石見国のたたら職人を導入し 鉄の精錬と大砲の製作まで検討したといわれています。
犬鳴御別館 を訪れた日は 御別館周辺の 桜は満開で 宮若市での 福岡藩犬鳴御別館 桜の宴 が行われ 地元有志の 舞踊等の奉納が行われ満開の桜の鑑賞の場ともなりました。 しかし 犬鳴御別館は 犬鳴御茶屋 として完成しますが 明治2年(1869) 福岡藩 黒田長知 が 宿泊しますが あまり使われることもなく 明治17年(1884) 大風雨にて倒壊 となり今は、別館の石垣 と 加藤司書の忠魂の碑 が 犬鳴奥山中にあるのみとなっています。
福岡藩犬鳴御別館説明板 宮若市観光案内版
犬鳴ダム周辺の説明板 犬鳴ダム堰堤
犬鳴ダムの説明板 犬鳴ダム堰堤より県道21号を望
犬鳴ダム司書の湖 司書の湖の説明板
加藤司書 加藤司書の碑
犬鳴ダムと犬鳴御別館の航空写真 犬鳴御別館内の水路
犬鳴御別館の大手門付近 犬鳴御別館大手門 と 説明板
犬鳴御別館の搦手門 1 犬鳴御別館の搦手門 2
加藤司書の忠魂の碑 犬鳴御別館 右林中
犬鳴御別館付近の絵図 犬鳴御別館の間取図
犬鳴御別館復元模型 犬鳴別館上広場からの桜
犬鳴御別館の桜の宴 1 犬鳴御別館の桜の宴 2
地図位置情報 犬鳴ダム事務所 北緯 33度41分20秒 東経 130度33分36秒
犬鳴御別館門 北緯 33度42分24秒 東経 130度33分15秒
犬鳴御別館 北緯 33度42分25秒 東経 130度33分18秒
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