筑豊風土記 | 筑豊風土坊のブログ

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筑豊風土記 の名称は明治前期の石炭採掘より 筑前の遠賀・鞍手・嘉麻・穂波の4郡と 豊前の田川郡の5郡の石炭組合の設立によって 筑前・豊前の頭字を取り 筑豊 の名称が使われました。 この 筑豊の歴史・生活を知って頂ければの 筑豊風土記 です。

 

                秋月街道  猪膝宿   (6)


 秋月街道 猪膝宿 は、現在国土地理院の2.5万分の地図等では 猪国 猪位金の地名で表示されていますし 構口(東・西構口)の付近から国道322号が新しい道になっているため注意して通らないと見逃してしまいそうな猪膝宿 です。 しかし猪膝宿に入るとやはり秋月街道の猪膝宿といわれるだけ古い街道の雰囲気は十分感じられます。


国道322号と街道分岐点より約200mの左手に 常夜灯が新しく建てられ この横に新しい 道標に 従是 北 小倉道  ・従是  東 中津道  ・従是 南 筑前八丁越 が刻まれています。 常夜灯の間には旧道標が寂しく横たわっています。 このあたりに案内絵図では 東構口 が昔あった場所と思われます。


猪膝宿は東構口付近が下町 蜜厳寺付近が中町 太刀洗の井戸が西構口 て゜構口基礎部が 残っておりこの付近までが 上町 と言われ 両構口間の 延長850mの宿場です。  秋月街道は、筑後地方への裏街道として使用され 宿場内も 恵比寿社・宿本陣を中心に整備されました。


猪膝宿は、筑前国嘉麻郡と 豊前国 の国境宿場 の為、江戸時代から明治まで 豊前と筑前の経済流通の窓口 として田川地域では唯一の商業地集落で明治の豊前史によりますと全世帯数134戸 中82戸が商業に従事し 特に 甘木屋さんは「駄ツボがほげる」 (荷を積んだ馬の足跡がくぼんだ) と言われるくらい大変栄えたといわれています


西構口及び太刀洗の井戸 は、昔 日本武尊が地方土賊の 猪折 を征伐し太刀を洗った井戸で 旱魃でも枯れることのない霊泉 といわれています。  宿場内は、 蜜厳寺浄土真宗大谷派 (北緯33度35分28秒 東経130度47分34秒 標高72m) ・ 安養寺 (北緯33度35分14秒 東経130度47分26秒 標高72m) 等の寺院と 江戸時代の伊藤浚明の私塾 義井堂跡 や 旧地主の中村家には 藩主の休息御正門 もあります。


西構口南方約130mに 白鳥神社(北緯33度35分15秒 東経130度47分24秒 標高53m) この神社は 景行天皇由緒の地として帝王山に鎮座していましたが 仁和3年(887)この地に転座し 元禄5年(1692)小倉藩主 小笠原忠雄 に王太子宮として命名されましたが その後 明治4年(1871)に 白鳥神社 と改名されました。 本殿奉納の絵馬は、天保7年(1836)貴重な絵馬 といわれています。

  
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           猪膝宿絵図                 猪膝宿と国道322号分岐点

  
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      道標と常夜灯と東構口付近                   蜜厳寺

  
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            安養寺                       現在の街道街並み

  
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           義井塾跡                        中村醬油屋付近

  
  筑豊風土坊のブログ-太刀洗と西構口付近   筑豊風土坊のブログ-西構口付近      
        太刀洗井戸と西構口
                       西構口付近

  
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          白鳥神社                         白鳥神社の拝殿 


                 次回は  秋月街道  大隈宿 へ