「と〜さん〜 明日また出かけてくれない?」とまた息子
「誰が来るの? オンナだな?!」と妻
「なんで毎回オンナっつーの!?」と息子
「あ〜、いや、と~さんは、別にオトコでもいいぞ、そういう時代だからな」とオレ
「バカじゃないの?」と息子
てな、会話があり、丁度バイトの面接もあったので横浜駅まで出て、面接も終わり、ディスカバー・ヨコハマに出発
まずは桜木町駅まで歩き「汽車道」を抜けて「赤レンガ倉庫」へ
いつもは下から見上げる遊歩道を歩き「象の鼻」へ (パノラマ撮影だからV字になってますが)
ここが開国当時の横浜村
そして相当ぶりに歩く「山下公園」。昔は薄暗くて夜は寂しい所だったし、みなとみらい地区ができるまでは赤レンガ倉庫が見えるだけの暗い景色しか無かった
世界初実物大動くガンダムも見納めですね~
信じられない事にほんの40年程前は、ここいらで一番高いビルがこの「メルパルク」。最上階レストランから横浜港が見渡せる唯一の場所だった。しかも郵政のだからお手頃価格だった
けど、43年の歴史の幕は閉じ、2023年12月31に閉館(オープンは1980(昭和55)年4月27日だったそうだ)(超高層ホテルの先駆けのヨコハマ グランド インターコンチネンタル ホテルの開業が1991年)。もっと早く知っていたら最後にもう一度行きたかったです
それより前に横浜を見渡せる場所はこの「マリンタワー」だけだった。小6の時に友達と来て上ったのが良い思い出
昼間でも空いていた1980年代の中華街の夜は早く、20時~にはほぼ閉店。僕らは夜な夜な通ったのが、ライブ演奏があった「Windjammer」とこの「ケーブルカー」とかで、日本で退役したアメリカ人のジミーがこの2つをやっていた (だいぶ前に他界したと聞いている)
1980年代は他にデンマーク人、フィンランド人、ノルウェー人がやっていたバーがありみな顔見知りだったが、この1967年の古地図に残る中華街入口正面の「バイキング」が1980年代の唯一の生き残りで
縁あってママさんのマリコさんと旦那には家族同様に可愛がってもらった。その旦那というのがデンマーク人のBMW R100RT乗りのケル、僕の兄貴分であった
この写真の右が在りし日のバイキング
そして、この頃が最後の“ハッピーアベニュー”の生き残り、古くは米兵、その後は船員目当ての「コールガールバー」が細い路地にあって、1980年代には確か3軒残り、最後の怪しい灯りを燈していた
今はみんなもう無いが、「バイキング」のママ経由であれだけ可愛がってくれたコールガールバーお姉さんたち、今はどうしているのかな (ちなみにマリコさんはケルと共にデンマークに戻り、2年もしないうちにマリコさんはガンで他界してしまった。最後に頂いた手紙には「あなたの部屋がいつでも待っているから遊びに来てね」というものだった)
そして横浜公園。奥が横浜球場。今はもう横浜スタジアムって呼ばれているが、古くはベーブルースやルーゲーリックも親善試合をした、僕より古いハマッコだと「ルーゲーリック球場」って呼んでいた (奥がスタジアム)
ここから平坦な往路の道で行くもつまらないので、"みなとみらい"ができる前のこの辺りの代表的だった繁華街の「野毛」を通り、「野毛山動物園」の丘陵地帯を上ったり下ったして(開港後の異人さん達が住む居留地に、相模湖の方から水を引いて貯めたのが野毛山貯水池で、ここから我が家に続く道路の通称「水道道」が延びる)
で、やっと家の近くまでたどり着いた頃には背中の筋肉が痛み出してきた。こんな道でも長時間歩くと疲れるのね~ とここで昼飯。息子が通ったスイミングスクールのビルにあるサイゼリヤ
胃を切って3年目~かな、サラメシはこれを半分しか食べられない日々が続いて、ついに「ドン・ミラノ」と呼ばれようになった僕は、2016年には1年間に170食~も食べてたミラノ風ドリア
何年ぶりに食べたけど、やっぱりウマイ(笑)
ちなみに残った半分はセルフテイクアウトして、午後、食パンに挟んで食べていたのだけど、それがまた激ウマで、なんで「ランチパック」シリーズに出さないんだろう、と思ったら「チーズドリア風ランチパック」で失敗したんだな
サイゼリヤのあのトマトの酸味のきいた、ミートソース風のチーズドリアだったからパンにもベストマッチだったのに(笑)
てなことで、およそ15km踏破のディスカバー・ヨコハマ、思ったよりも疲れましたわ
改めてググると、我が家から「マリンタワー」はこんな感じで1時間55分、平坦に楽に行けるんだね
今度「横浜マリンタワー階段イベント」の時に「335段」の階段を上ってみよう~