『史記』の前夜:司馬遷の目 | 鸞鳳の道標

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 『史記』「斉太公世家」では、太公望とその後継者たちを紹介した後、「泰山から瑯邪へ行った」とし「民衆は闊達で、知恵を多いに秘めている。これは天性であろう」と。そして、「洋々として、大国の気風がある」などと述べています。
 また、張良について書かれた「留侯世家」において、「私はその人はきっといかつい大男であろうと思っていたのだが、人物画を見たところ、まるで婦女のような容貌であった」と述べています。あるいは、「孟嘗君列伝」では「私はかつて薛を通り過ぎたが、俗として荒々しい若者が多かった。鄒や魯においてはなおさらであった。なぜかと聞いてみたところ、『孟嘗君が天下の任俠を招致し、姦しい者たちを六万余件も薛に入れたからだ』という。孟嘗君が客人を喜んで受け入れたという伝承は、嘘ではなかった」としています。
 これらは本来、史書として含むべき内容でしょうか。
 これは『史記』の特徴のひとつです。
 司馬遷は二十代前半(もしくは十代後半)と思われることに大々的な旅行に出て、そこで様々な伝承を拾い出し、それを『史記』に反映させています。その情報には文献にもあるような、ある程度は信憑性が高いと思われるものもある一方で、民間の長老が口伝で伝えただけのようなものもあったでしょう。
 特に後者の、自分で見聞きしてきた感想が、各伝の最後に「太史公曰」として評論として述べられていたり、「太史公自序」において自分の生涯について、そして『史記』の制作過程について、そして全百三十巻について改めて評価を述べていくなかでも、紹介されています。
 歴史書でありながら、実は旅行記と見聞録の要素も含まれているのです。
 そして、八巻の「書」が含まれていることも見落としてはなりません。これらは天文や経済、生活などに関わる専門書です。『史記』では、本紀・世家・列伝などの人物伝が主であるために視界から外れてしまいがちですが、それだけではなく、生活環境を取り巻く情報も含めた百科事典とみなすべきです。
 実際、この書物の本来の名称は『太史公書』です。太史公である司馬遷が書いたものという意味でしかありません。「史記」というのは本来、歴史記述書という意味の普通名詞です。この『太史公書』が『史記』と呼ばれるようになった時期は不明ですが、「史記」と題する書物は本来、無数に存在するのです。しかし後世、司馬遷に敬意を表し、単に「史記」といえば司馬遷の『史記』を指すようになったのです。
 
 司馬遷の持つ独特の視線は、人物評価の中にも現れます。
 「宋襄の仁」という言葉があります。簡単に述べると、楚の成王が軍勢を率いて宋に攻め込んで来たとき、泓水(おうすい)を渡っている途中の楚の軍勢を襲うべきだと進言した宋の重臣に対し、宋の襄公は「敵の不利につけこんではいけない。敵の軍勢が準備を整えるまで待とう」と退け、結局、陣形を整えた楚の軍勢に宋は破れ、襄公自身も傷を負うことになります。
 このことから、無用の情けをかけることを「宋襄の仁」と呼ぶようになり、宋の襄公といえば理想主義で現実を弁えない人のように伝えられるようになります。
 しかし、このことを記載した「宋微子世家」の最後に「太史公曰く」として、
 「襄公は泓水で敗れた。しかし、君子と呼ばれる人たちは、これを素晴らしいと言った。中国の礼儀が欠けていくのを悼んで、その態度を褒めているのである。宋襄の礼譲ここに有り」
 と、むしろ絶賛しています。
 他にも時折、司馬遷は彼なりの意見を提示しています。司馬遷は『史記』の執筆において、『尚書』(書経)、『春秋左氏伝』、『戦国策』などを参照したというのが定説です。たしかに、それらの書物から引用されたと思われる情報がそのまま載っていることもあります。
 その一方で、それらにはない情報も扱っています。具体的な感想がない場合でも、それを取り入れた思想は見え隠れしており、決して機械的に情報を載せていったわけではないことが伺いしれます。
 
 『史記』の内容に信憑性を疑う人たちがいます。
 先ほど述べたように、『史記』では過去の書物に載せられた情報がそのまま載っていることもあれば、どの資料に基づいたか分からないような情報もあります。
 たとえば、秦の始皇帝こと、秦王・嬴政(えい・せい)について、「実は呂不韋(りょ・ふい)の子である」という話を読んだことはありませんか。これは『史記』「呂不韋列伝」に基づくもので、彼の父である子楚(後の荘襄王)が趙に人質として滞留していた頃、商人であった呂不韋の尽力で秦王の後継者に内定するのですが、子楚は呂不韋の舞姫を所望し、これを娶っています。しかしこの舞姫は実は呂不韋の愛人であり、すでに呂不韋の子を身籠っていたのを隠していたというものです。班固の『漢書』はこれを踏襲してか、同じことを書いています。
 しかし、『戦国策』にはこの記述はありません。また郭沫若(かく・まつじゃく)も、「呂不韋列伝」には矛盾した記述が多くて信頼に足りないとし、これを真っ向から否定しています。そもそも、「秦始皇本紀」にはきちんと「始皇帝は荘襄王の子である」と明記されているのです。同じ『史記』の中ですら、矛盾が起こっているのです。まして、根拠不明の内容となると、どこまで信用してよいか、分からなくなります。
 『史記』の内容のうち、『春秋』や『戦国策』など出典が明らかなもの以外は悉く、司馬遷による創作であると決めつけるような極端な懐疑派も現れました。
 これは『史記』の、特に戦記に関する記述が非常に劇的に、すなわちドラマチックに描かれ過ぎていて、歴史書を読んでいるというよりは小説を読んでいるかのような錯覚すら覚えるほどであったことも一因でしょう。司馬遷は過剰表現を好むとか、逸話や予言などをすぐに取り込むとし、真偽の不確かなものも素直に(悪くいえば短絡的に)信じる軽率な人物であったかのような批判もあります。
 たとえば、晋の文公といえば、後継者争いのせいで国外逃亡を余儀なくされ、十九年もの流浪生活という辛酸を嘗めてようやく帰国できた苦難の人です。でもそこに登場する、たとえば文公は帰国すればきっと成功するだろうと小国の大臣が予言するような逸話などは懐疑派に言わせれば、文公を称えるために後の世代が創作した(悪くいえばでっち上げた)話であると言い切るほどです。そしてそんな偽りの話をろくに精査せず平然と書く司馬遷の正気を疑っているほどです。
 ところが、一八九九年、歴史的大発見によってこれらが覆ることになるのです。これについては「本紀」の話で紹介します。
 今では、司馬遷の正気を疑うような懐疑派は鳴りを潜めました。そもそも、奇跡や偶然を真っ向から否定し、歴史に緻密な理論や完全な判断、絶対の理性や予定調和を求めるほうが間違いなのです。
 すべてを信じるのも愚かしいことですが、すべてを疑ってかかるのも、つまらない話です。
 今では、出典が明らかではない話は、きっと何か参考とした文献や口伝などがあり、しかしそれらは散逸して現在では残されていないのであろうという考えの方が主流となっています。
 『史記』の中ですら矛盾した話が起こるのも、参考とした情報が多すぎて精査しきれなかったのであろうと思われます。尤も、明らかに一方的な記述でそのまま信じるのは危険だという情報もあります。
 司馬遷には好き嫌いの感情があり、それが記述にも反映されていることは否定できません。好む人物について表現が豊かになるのは懐疑派が揶揄したくなる気持ちも認めざるを得ないことで、「項羽本紀」や「魏公子列伝」などは実に流麗とした美文で綴られ、名作を読んだかのような満足感に包まれることは、多くの人が実感しています。その一方で、なぜこの人の話がそこへ分類されているのか分からないものもあります。なぜこの人が取り上げられていないのかと思われるものもあります。
 ともあれ、年号や用語の暗記を強制されたり、成功を約束された偉人を称えることに特化したような日本の歴史教育の感性は、持ち込まないほうがいいでしょう。登場する人物の中には、もちろん成功者もいますが、苦難の一生を経ながら世の中から認められなかった人や、一時的に成功しながら悲劇的な最期を迎えたような人物も出てきます。
 そして、必ずしもすべてを読み尽くす必要もありません。興味が沸かない話があれば、その時は読み飛ばしても構いません。
 専門に研究している学者ならともかく、百三十篇、五十二万六千五百文字のすべてを網羅するというのは大変な作業です。『論語』が一万千七百五文字、『孟子』が三万四千六百八十五文字。『春秋左氏伝』でも十九万六千八百四十五文字。思想書に比べて歴史書の方が分量が多くなるのは致し方ないとしても、春秋時代しか扱っていない『春秋左氏伝』に比べて『史記』が歴史の黎明期から漢代まで扱っているとはいえ、膨大な量であることは疑いようがありません。実際、『史記』を愛読しているという作家は多く見受けられますが、「表」と「書」は一度も見ていないとか、項羽と劉邦の場面だけは何度も読んでいるが他の箇所には興味がないというのも珍しくありません。まして、一般的な読者であれば、すべてを読み解く時間などないでしょう。
 「五帝本紀」が最初に出てきますが、おそらく一般的な現代日本人には難しい人名が多く、そこに描かれている理想についても理解が及ばないかも知れません。黄帝は春秋時代や戦国時代までに培われた思想から、その理想像たる人物として語られている面も否めないからです。尭や舜はかつては学校教育で教えられており、逸話も多いのですが、今ではそれを教える人も少なく、一般常識の範疇から外されてしまっています。
 現代日本で古代中国史といえば、項羽と劉邦、三国志が題材としては多く、春秋時代や戦国時代などはややマニアックな層に分類されてしまいそうです。
 『史記』のもう少し詳しい話や、各巻についての紹介以前に、人気のある巻、お勧めの巻などを次回、提示してみましょう。