『史記』の前夜:司馬遷 | 鸞鳳の道標

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 司馬遷(しば・せん)はあざなを子長といい、左馮翊夏陽県龍門の人です。
 生年は二つの説があります。
 漢の景帝の治世、紀元前一四五年。あるいは武帝の治世、建元六(紀元前一三五)年とされています。
 十歳の時には古文を諳んじることが出来たといい、二十歳の頃には長安に移り住んでいるようです。この頃の履歴はあまりはっきりとはしておらず、自伝である『太史令自序』を元に多くの学者が詳細を模索していますが、生年の説が定まらないように、幼少期についての説はどれも定説にまで至っていないのが現状です。
 二十歳の頃、突然、各地の旅行に赴いています。長江、淮水の一帯から中原を歩き回り、各地の風俗の考察や伝承の蒐集などを行っています。二十二歳の頃、郎中に就くと、武帝の巡遊に従い、奉使として巴、蜀、略邛、莋、昆明などの地へ赴いています。また、軍隊を監督する、日本でいう「戦目付」である監軍のような仕事も行っていたようです。

 元封元(紀元前一一〇)年、父・司馬談(しば・だん)が亡くなります。
 司馬談は太史令でした。これは三公九卿のひとつである太常の属官で、国の歴史を著述する記録官です。禄は六百石。しかし、彼にとって屈辱的な出来事がありました。それは封禅の儀において、呼ばれなかったということです。太史令であれば当然、儀式の手順について下問を受けたときに答える役目があり、またこの功績を後世に伝えるために儀式の様子を記録する必要があるため、随行するのが当然であるはずなのに、何故か司馬談は呼ばれなかったのです。
 これは太史令の地位が下がっていたことも一因でした。本来、歴史を記述するためには、故事を学び、天文を計り、暦を作るなど様々な仕事があったのですが、この頃にはただ暦を作ることだけで手一杯で、過去から現在の歴史を綴ったり、数多くの儀式・典礼について調査して諮問に応えられるように学識を積むことを怠っていたのです。封禅の儀に呼ばれなかったのもおそらく、現在の太史令に諮問したところでどうせ答えられないだろうと思われたからでしょう。
 司馬談は死に際して、司馬遷に訴えかけています。周代からの太史令でありながら、時代とともに廃れ、自分は封禅に呼ばれなかったとし、
「私は死ぬが、お前は必ず太史になる。論述・著作を忘れてはならないぞ」
 と、そして、
「孔子は『詩』や『書』を論じ、『春秋』を作った。今の学者はみな、これに則っている。獲麟(『春秋』での最後の記述)から四百年余りが経っているが、諸侯が相争い、歴史記述は放置されている。今、漢が興り、海内は統一された。明主や賢君、忠臣、義のために死んだ士など、太史として論述すべき内容は山ほどある。天下にこれらが伝わらないことを、私はとても恐れている。お前はこのことを忘れるな」
 元封三(紀元前一〇七)年、父の遺言通り、司馬遷は太史令の位を継ぎます。三年も間が空いているのは、服喪期間だからです。儒学の教えでは、親を亡くしたときは三年(実際には「三年目に入るまで」で、二年と一か月)服喪し、その間は外出もせず、当然ながら職務からも離れるからです。
 そしてこの時から、歴史書である『史記』の編纂に執りかかります。

 太初元(紀元前一〇四)年、司馬遷は壺遂(こ・すい)、唐都(とう・と)、 落下閎(らくか・こう。あざなは長公)らとともに、太初暦を作ります。それまでは秦が作った顓頊暦に従い、十月を年の初めとしていたのを、夏王朝が使っていたという夏暦に従って立春正月を初めとしています。また一年と一か月の長さを計算し直し、太陽年の長さを三百六十五日と四分の一という単純なものから、もっと細かく算出された八十一分法という方法が用いられています。
 こうして着々と、後世に残る事業を進めていた司馬遷の、すべてを台無しにするような出来事が起こります。
 天漢二(紀元前九九)年。匈奴攻めの別動隊を率いていた李陵が匈奴の本隊と遭遇し、奮戦虚しく降伏した事件です。
 これに怒った武帝に対し、群臣が残らず武帝の意見に賛同するなか、李陵を弁護した司馬遷が死刑を言い渡されます。宮刑を受けることで、死刑を免れます。これについては、司馬遷は父の遺言を遂行して『史記』を完成させることが第一と考え、一時の恥辱を偲んだためであると解釈されています。
 司馬遷が釈放されたのは、太始元(紀元前九六)年のことです。実に四年間も獄に繋がれていたことになります。
 そして中書令に任じられます。
 これは内廷、すなわち後宮など皇帝の身辺に仕えて取り次ぎを行う役目で、皇帝の私生活の面でも側近として仕えるという重要な役割ですが、それだけに任されていたのは宦官のみでした。国政に参加するようになるのは隋・唐朝以降で、その頃になると宰相格ともいえる重大な地位となるのですが、この頃はまだそれほどではありません。それでも禄は一千石で太史令の六百石よりも高く、表向きは出世ですが、宦官なのでこの地位が妥当であろうと見做されたとも言えます。
 これ以降、武帝の全国巡察に付き従いながらも、『史記』を著し続けます。完成したのは征和三(紀元前九十)年頃とされています。
 これは十二本紀、十表、八書、三十世家、七十列伝からなる百三十篇、文字数は五十二万六千五百文字であると、司馬遷自身が記しています。また、名山にこれを隠し、副本を都に置いたともしています。
 これ以降の司馬遷の事績は不明です。没年も明らかにされていません。1916年に清末民初の学者である王国維(おう・こくい。あざなは静安または伯隅)は、司馬遷の生没年の考証を行ったときに、「武帝のすぐ前後の辺りであろう。それより大きく遅れることはない」としており、現在でもその辺りが妥当であろうと判断されています。

 余談となりますが、司馬遷の先祖と子孫について少しだけ。
 司馬遷の先祖は周の第十一代・宣王の頃に秦に移り住んだとされています。八世の祖は司馬錯(しば・さく)です。この人は武人として大いに活躍するのですが、それよりもある進言により、それまでは辺境の弱小国でしかなかった秦を、中原に手を伸ばせるほどの中堅国家に押し上げた功績があります。それは、南西に広がる蜀の地を手に入れろというものでした。これにより秦は南方の大国である楚を牽制することができ、また、蜀は優秀な農作地帯であるので、いわば巨大な穀物倉庫を手に入れたようなものです。
 その孫(司馬遷の六世の祖)の司馬靳(しば・きん)は、名将・白起(はく・き)の副将として、趙との「長平の戦い」に参加し、趙の降伏兵四十万が生き埋めとなっています。この両者は後に秦が統一国家となるうえで、軍事的に活躍した人物として高く評価されています。
 それ以外の先祖については、ほぼ不明です。
 司馬遷には息子がいなかったらしく(少なくとも証拠はない)、娘が一人いて、名は一説では英といいます。彼女は楊敞(よう・しょう)に嫁いでいます。楊敞は霍光(かく・こう。あざなは子孟)の信頼を受け、大司農、御史大夫、丞相などを歴任し、安平侯、死後に敬侯に封じられています。楊敞の子の長男が楊忠(よう・ちゅう)、次男が楊惲(よう・うん。あざなは子幼)。安平侯を継いだのが楊忠で、楊惲は『史記』を世に広く知らしめる功績を立てています。
 楊忠の子は楊譚(よう・たん)、楊譚の子が楊寶(よう・ほう)。そしてこの楊寶の子が「四知」の故事や「関西の孔子」の異名で知られる楊震(よう・しん。あざなは伯起)です。
 これ以降、楊秉(よう・へい。あざなは叔節)、楊賜(よう・し。あざなは伯獻)、楊彪(よう・ひょう。あざなは文先)の四代にわたって、太尉の職に就いたため(司空や司徒に就いた者もあり)、この一族が「四世太尉」と呼ばれるようになるのです。

 最後に司馬遷の一族に関する伝承を載せておきます。
 これは司馬遷が処罰されたとき、一族が後難を恐れて改姓したというものです。司に一画加えて「同」の姓としたり、馬に二画加えて「馮」の姓としたものです。実際、陕西省渭南市韓城市(渭南市が地級市、その下の行政区分として県級市の韓城市があります)にある芝川鎮西塬上徐村では、この二つの姓の人たちが多く、彼らは姓は違っていても同じ一族の末裔であるとしています。