嫌われ者の挽歌 - 呂布:最強の猛者(2) | 鸞鳳の道標

鸞鳳の道標

過去から現在へ、そして未来へ。歴史の中から鸞鳳を、そして未来の伏龍鳳雛を探すための道標をここに。

 初平3(192)年。

 帝(献帝)の病気が癒えた快気祝いとして、多くの臣下が未央殿【びおうでん】に集まっていました。そこへ現れた相国・董卓【とうたく】に、衛兵の格好をした兵士たちとともに襲いかかった李粛【り・しゅく】。

 驚いた董卓が、

「呂布はどこにいる」

と呼びまわったところ、目の前に現れた呂布は、

 「詔勅だ!」

 と言って、董卓を刺殺してしまいます。

 さらに呂布たちは、董卓の三族(父母、妻子、兄弟姉妹)までも皆殺しとします。

 この時、90歳になっていた董卓の母は城門まで逃げ、「どうか助けてください」と懇願しますが、即座に首を落とされます。董卓の主簿【しゅぼ】だった田景【でん・けい】という男も、董卓の死体に駆け寄った途端に、呂布に殺されてしまいます。

 その一方で、董卓の死を聞いた長安の人々は街中に飛び出して喜びあい、董卓にすり寄っていた人たちはことごとく牢屋に送り込まれた後に処刑されていきます。


 この功績で、王允【おう・いん】は呂布を奮武将軍に任命し、節を与えて三公なみの待遇を許します。さらに、温侯に封じて、朝政に参加させます。


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 さて、董卓を殺した呂布は、李粛を陝【せん】の地に向かわせて、董卓の娘婿である牛輔【ぎゅう・ほ】を逮捕しようとします。しかし、李粛は反撃を受けて弘農【こうのう】の地まで逃げてしまったため、これに怒った呂布は李粛を殺してしまいます。

 一方で、牛輔の陣営では叛乱が続発したため、牛輔はてっきり「全員が叛乱を起こしたのか?」と思い込んでしまい、金銀財宝を抱え、攴胡赤児【ほくこせきじ】ら5、6人だけを伴って逃げ出してしまいます。

 しかし、その攴胡赤児たちは財宝に目がくらんで牛輔を殺し、その首を長安へと送りつけてしまいます。


 さて、呂布は并州の人間です。一方で、董卓軍団は涼州出身者で占められています。そのためか、呂布は居心地が悪かったようです。董卓を暗殺したことで、涼州人たちを恐れつつも憎み、一方で涼州人たちも呂布を恨むこととなります。


 その頃、都では

 「涼州人は皆殺しにされるぞ!」

 という噂が流れていたようです。

 これは呂布や王允が涼州人を見つけては牢屋に送りこんだり、殺したりしていたので、まるっきりのデマというわけではなかったようです。そのため、牛輔の部下だった李傕【り・かく】や郭汜【かく・し】といった董卓配下の者たちは、すでに牛輔がこの世にいないこともあって、これからどうしようか迷ってしまい、涼州へ逃げ帰ろうとしていました。

 しかし、そこに待ったをかけたのが、同じく牛輔の部下だった賈詡【か・く】(字は文和)。

 彼は、

「このまま逃げても、宿屋のオヤジに捕まってしまうだけですよ。それよりも、都へ戻って董太師の仇を討ってはどうでしょう」

 こう進言し、それを聞いて李傕たちは都へ舞い戻ります。

(このために都に災いが戻ったとして、裴松之は賈詡のことを忌み嫌っています)


 なるほど、とばかりに李傕や郭汜は途中で軍勢を増やしつつ、さらに董卓の部将だった樊稠【はん・ちゅう】、李蒙【り・もう】、王方【おう・ほう】らと合流し、長安を取り囲んでしまうのです。

 思わぬ反撃に、さすがの呂布もどうすることもできず、わずか十日で長安は陥落してしまうのです。


 さて、注にある『英雄紀』によれば、郭汜が何を思ったのか、

「軍を下げてくれ。ここはひとつ、一騎打ちで決めようではないか」

 と呂布に持ちかけます。

 これに呂布は快く承諾し(そりゃあ、そうでしょうね。その方があっさり終わっちゃいそうですし)、やおら一騎打ちが始まるのですが・・・まあ、おそらく想像が付くかと思いますが・・・呂布が一方的に押しまくります。郭汜は耐えきれずに馬から転げ落ちるのですが、郭汜の部下たちが駆け寄って彼を助け出そうとしたため、呂布の部下たちも呂布に何かあっては大変とばかりに駆け込み、乱戦状態になってお流れになってしまいます。

 ・・・何と言おうか・・・郭汜さんって、何を考えてたんだろうか・・・これがきちんと「史実」として書かれてる、ごくわずかな「一騎打ち」の場面だったりします。『演義』で描かれている一騎打ちの大半は創作で、史実の中で確認したうちではほかに「閻行【えん・こう】vs馬超【ば・ちょう】」(でも閻行は『演義』に登場してません)と、「孫策【そん・さく】vs太史慈【たいし・じ】」ぐらいなものです。もっとも、後世の私たちが知らないだけで、郭汜さんは当時は猛者として名のある人だったのかも知れませんね。まあ、それでも呂布に挑むなんて無茶にもほどがあるような気がしますが。


 呂布は長安を追われ、流浪の旅へと出てしまいます。その後の長安は混沌状態となるのですが、それはまた別の機会に。


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 呂布と共謀した王允についても、実はいろいろと言いたいことがあるのですが、ここではその末路だけを語りましょう。『魏書』「董卓伝」注『漢記』によれば、


 呂布は敗れた後、未央殿の青瑣門の外に馬を止めると、王允に、

「さあ、行きましょう」

 と促すものの、王允は、

「国家の安定が私の最大の願いだった。これが達せられないのならば、命を差し出すだけのこと。朝廷では幼帝がわたしだけを頼りとしている、この期に及んで助かろうなどということはできない。どうか、関東(注:洛陽より東)の諸侯によろしく伝えてくれ。国家のことを忘れぬように、と」

 李傕と郭汜は、長安に入ると南宮の脇門に駐屯すると、反董卓の有力者を次々に殺していきます。王允は皇帝を連れて宣平門に登って危機から逃れていました。李傕たちは皇帝を見つけるや、門の下に平伏して、地面に頭を下げます。皇帝が、

「なんじらに賞罰の権力を行使することは許されていない。それなのに、兵士たちに勝手な真似をさせているのは、一体どういうわけか!」

 と、詰問すると、李傕は、

「董太師は陛下に忠誠を尽くしたのに、呂布に殺されてしまいました。わたしたちはその復讐をしただけで、叛乱などではありません。終わり次第、出頭して罪を受けるつもりでいます」

 と。

 王允は行き場を失って、やむなく門から降りて外へ出ると、李傕たちの前に進み出ます。李傕は、王允と、その妻子など数十人を殺したため、長安の人々は老若男女みな涙を流した。


 と、あります。

 李傕の「董太師(注:董卓のこと)は陛下に忠誠を尽くした」というのは一方的な言い分で、実際にはないがしろにしています。それでも、大軍を寄せてこう言われては、王允としても何も言えず(言ったところで、敵兵の怒声にかき消されるでしょうから)、自分の末路を悟ったのでしょう。


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 少々、短いですがここで一端区切り。

 実はこの後の、流浪の部分も書き添えようとしたら、想像以上に長くなりそうだったので分割することにしました。

 長安から脱出した呂布。さて、彼の行き先は?


 (3)へ続きます。



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