嫌われ者の挽歌 - 呂布:最強の猛者(1) | 鸞鳳の道標

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 『三国志演義』の中で、極めつけの嫌われ者といえば、董卓【とう・たく】と曹操【そう・そう】ですが、それに次いで嫌われていると言ってよいのが、呂布【りょ・ふ】です。


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 呂布、字は奉先。并州五原郡九原県の人。


風の伝えるままに


 首都・洛陽の北。匈奴【きょうど】や鮮卑【せんぴ】と呼ばれる異民族がすぐ近くにいます。

 呂布は勇猛さを買われて、并州の役人となります。そして、刺史の丁原【てい・げん】(字は建陽)が騎都尉(近衛騎兵隊長)として河内郡に駐屯したさいに、呂布をお供に連れています。

 この時、呂布は主簿(【しゅぼ】。文書係)として、丁原に可愛がられていたようです。

 

 注にある『英雄記』によれば、丁原はもともとは貧しい家の出で、文字もろくに知らない人だったようです。性格は粗暴だったようですが、武勇に優れ、騎馬や弓術にも秀で、困ったことが起きたり戦闘になったときにはいつも先頭に立つような人物だったようです。


 さて、都では皇帝が死去します。霊帝です。

 この期を捉えて、大将軍の何進【か・しん】は宦官を残らず殺してしまおうと思い、丁原はこれに参加して洛陽へ乗り込みます。何進は、妹の何太后に言われ(実際には宦官たちが何太后に泣きついて)、宦官誅殺を思いとどまります。丁原は執金吾(【しつきんご】。首都圏の警備司令官)に任じられます。


 さて、宦官は大人しくしていませんでした。逆に、何進を暗殺してしまいます。

 しかしその宦官たちは、何進の部下だった袁紹【えん・しょう】や、袁術【えん・じゅつ】などの攻撃を受けて、悉く殺されてしまいます。その数は2千人とも言われています。

 しかしその後、都を掌握したのは袁紹ではなく、涼州の董卓【とう・たく】でした。

 何進からの要請を受けて都に来た董卓は、都から落ち延びていた帝(少帝・劉弁)と陳留王(劉協。後の献帝)を途中で拾って都入りし、帝を助けたという口実を使って(ただ単に落ちてたのを拾っただけですけど)実権を握ってしまうのです。

 そして、董卓は権力を掌握するために執金吾である丁原を殺そうと企み、そこで目を付けられたのが呂布でした。


 呂布は董卓の誘いに乗り、丁原を殺して董卓の元へ降ります。董卓はこれを喜んで、呂布を騎都尉とし、親子の契りを交わすのです。

 やがて、中郎将となり、都亭侯に封じられるのです。


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 ずいぶん、あっさり書きましたが、『魏書』「呂布伝」では細かい記述がありません。ただ、丁原を殺したとあるだけ。

 『三国志演義』では、


 董卓は丁原に戦いを挑むも、巨大な男に阻まれて逃げ帰ってしまいます。そして参謀の李儒【り・じゅ】から、

「あれが有名な呂布です」

 と言われ、恐れをなしてしまいます。しかし、李粛【り・しゅく】という男が、

「呂布は強いが、知恵はない。私は同郷なので、彼を説得しましょう」

 といい、赤兎【せきと】という名馬と金を携えて、呂布の元を訪れます。

 何しに来たのかという呂布に対して李粛は、

「董卓どのはキミの武勇に敬服し、ぜひこれを授けてくれ、と言われた」

 と言い、さらに、

「丁原では器量が小さい。英雄である君は、もっと大きなところで名を馳せるべきだ」

 と、転職をそそのかす始末。「丁原は義父だから」という呂布に対して、

「でも実の親子じゃないだろう」

 と言って、丁原を殺させます。


 大雑把に書きましたが、この展開は『演義』の創作。でも、実際にこんな感じだったのかも知れませんね。呂布がジワジワと誘いに乗せられていく様子が見て取れるようです。

 ところで、お気づきと思いますが、『魏書』「呂布伝」では、呂布が丁原の養子になったとは書いていません。これも『演義』の創作なのです。おそらく、董卓の養子となったことを踏まえ、それ以前に養父を殺したという罪状を与えることで、呂布に「親殺し」の烙印を押すのが目的だったのではないでしょうか。話を盛り上げるために。


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 さて、董卓は自分が普段から恨みを買っていることを分かっていたようで、常に呂布をお供に連れていたようです。

 その一方、気性の激しい董卓はある時、ちょっとしたことで腹を立てて手戟(手のひらサイズの飛び道具。手裏剣のようなもの)を投げつけ、呂布はこれをサッとかわしてすぐさま何度も謝ったので、董卓もようやく機嫌を直したとのこと。ただ、これ以降、呂布は董卓を内心で恨むようになったそうな。


 何だか、どっちもどっちだなあ。器量が狭くないか?


 それからしばらくすると、呂布はビビリモードに入ります。

 それというのも、董卓の侍女に手を出していて、それが発覚することを恐れたためです。そんな彼に魔の手が差し伸べられます。

 司徒の王允【おう・いん】(字は子師)です。

 彼は同郷であったことから(并州太原郡祁県出身)、呂布とは仲良しさんだったようです。そしてある時、王允の屋敷を訪れた呂布は、董卓にあやうく殺されかかったことを話すと、王允は、

「尚書僕射の士孫瑞【しそん・ずい】とともに、董卓を殺すつもりでいる」

 と、いきなりとんでもない発言。参加してくれ、という王允に呂布は、

「でも、董卓とは親子ですし・・・」

 しかし王允、めげずに、

「あなたの姓は呂。董卓とは血縁ではないのですよ。いつ殺されるかも分からないのに、何で親子だなんて言ってるんですか?」

 これで決意した呂布、詔勅を得て、董卓をぶっ殺してしまいます。


 王允というと、『演義』では「董卓を暗殺する」と言ってのけた曹操に『七星宝刀』という名刀を貸したことで知られていますね。また、貂蝉【ちょう・せん】という美女を使って董卓との仲を裂く「美女連環の計」まで施しています。漢王室への忠誠心は高いが、なかなかエゲつない、陰謀ジジイとして描かれています。『演義』著者は、この「侍女」との仲にヒントを得て、「貂蝉」という架空の人物を作り出し、演出したのでしょう。

 貂蝉の話をざっくりと書くと、


 王允の家の歌妓だった貂蝉は、王允が董卓のことで悩んでいると知って、自ら「美女連環の計」に乗ることを進言します。王允は呂布を自宅に呼び寄せ、酒宴の席で貂蝉の舞を見せ、「欲しければどうぞ」と、嫁にやる約束をします。一方で、王允は董卓を呼び寄せ、「欲しければどうぞ」と、すぐに連れて行かせます。貂蝉が董卓の元にいることを知った呂布は、彼女が董卓に奪われたと思い込み、不満を募らせ、やがて王允にそそのかされて董卓を暗殺してしまいます。


 ざっくり書きすぎ?

 貂蝉は『演義』が作り出した架空の存在でありながら、「中国四大美女」の一人に挙げられ、貂蝉に関する創作話もたくさん登場しています。これはいずれ貂蝉で特集を組みましょうか。かなり面白い話が多々あります。

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 あれ?

 何か大事なことがすっぽ抜けているような気が・・・。


 『魏書』「呂布伝」に書かれているとおりの(多少の解説や状況の脚色はありますが)展開ですが、「呂布」と言って最初に思い浮かぶ「名場面」がないのにお気づきでしょうか。
 彼の得意技と言えば「裏切り」ですが(シャレにならん)、何と言っても数多の猛者をも凌ぐ武勇、弓術、馬術などの冴えは、『演義』で誇張されているものの、一級品どころか特級品。


 武勇といえば一騎打ち、馬術は赤兎、董卓配下としての戦いとくれば・・・

 そう、反董卓連合軍との戦い。中でも「虎牢関の戦い」でしょう。

 連合軍には、まだ駆け出しに近い状態の劉備【りゅう・び】も参加しており、虎牢関で暴れまくる呂布は、襲いかかって来た張飛【ちょう・ひ】と互角に戦い、そればかりか、加勢してきた関羽【かん・う】と劉備のあわせて3人とそのまま戦い続け、疲れたのでようやく馬を引き返したという『三英戦呂布』の場面です。


 「呂布伝」にはこの場面がまったくないのです。

 それどころか、「董卓伝」にも「武帝紀」(曹操)にも「袁紹伝」にも、まったくないのです。つまり、架空のお話。

 かろうじて、『呉書』「破虜伝」注『英雄記』に、呂布との絡みが載っています。それは、孫堅が陽人城攻めのときのことで、


 はじめ、孫堅が董卓を討伐したとき、梁県の陽人に到達した。董卓はまた歩兵と騎兵あわせて五千の軍勢を遣して彼を迎撃させることにして、陳郡太守・胡軫【こしん】を大督護、呂布を騎督とし、その他の歩兵・騎兵・将校・都督は非常に大勢だった。

 胡軫は字を文才といい、短気な性格で、あらかじめ宣言していた。「今回のこの作戦は、要するに一青綬を斬ればよく、それですっきりと治まるのだ」。諸将はそれを聞いて、彼を憎らしく思った。軍勢が広成に到達したが、陽人城を去ること、数十里であった。日が暮れたとき、兵馬はともに疲労を極めており、ここで留まるべきだった。また、もともと董卓から指図を受けており、広成で宿営を張り、馬に秣をやって飲食し、夜になってから進軍し、夜明けとともに城を攻める手立てになっていた。諸将は胡軫を忌み嫌い、賊によって彼の計画がメチャクチャになってしまえばいいとさえ思った。

 呂布たちは「陽人城にいる賊はもう逃げたぞ。追いかけて奴らを探さなければ、見失ってしまうぞ」と騒ぎ出し、すぐさま夜中に進軍した。城中の守備はしっかりと整っていて、襲撃できそうになかった。このため、官吏や兵士は飢え渇き、人馬ともに非常に疲労した。そのうえ、夜中の着陣であり、塹壕や堡塁などもなかった。鎧を脱いで休息していると、呂布はまた驚かそうとして言った。「城中の賊が出て来たぞ」。軍中は混乱して逃げ出し、みな鎧を棄て、鞍や馬を失ってしまった。十里余りも行って、ようやく賊がいないことに気付いた。ちょうど空が明るくなったので帰還し、武器を拾い、改めて進軍して城を攻めようとしたが、城の守備はすでに固められ、塹壕はすでに深く、胡軫らは攻撃することができないまま撤退した。


 となっています。

(胡軫のいう「青綬」というのは、「印綬の青い紐」のことで、官位のことを指していると思われます。つまり、「こんなのは、官吏(ここでは孫堅)一人だけ倒せば終わっちまうんだよ。さっさと片付けようぜ」と言ってるわけです。将兵たちは、「はあ? そんな簡単にいくワケねーだろ」「口先だけで偉そうに言うなよ」とか思って、やってらんねーヨって気分になっちゃったわけですね)

 それにしても何やってるんでしょうね、呂布さんてば。たしか、昔の日中合作アニメの『三国演義』だったと思うのですが、呂布が胡軫の寝ている陣幕の片隅に潜んで「賊が来たぞ」と叫んだところ、胡軫が寝巻姿のままで慌てふためいて出てきたので、呂布は腹を抱えて笑い転げていると、本当に孫堅軍が攻めてきたので慌てて逃げ帰った、という創作がされていました。

 いずれにしても、呂布が反董卓連合軍と戦ったとはっきりしているのは、この場面だけです。しかも、副将。武勇の場面すらない。

 董卓は義理の親子の契りを交わしつつも、呂布のことをあまり信用していなかったのか、敢えて使おうとしなかったのか。涼州軍閥の董卓軍にあって、呂布は并州出身者という「よそ者」だったためか、あまり居心地はよくなかったようです。それも関連しているのかな。董卓配下呂布、としての場面がなさすぎるのです。


 さて、ここで別の疑問が浮かんだ方もおられるのでは?

 呂布が虎牢関で戦ったかどうかは、『蜀書』の「先主伝」(劉備)か「関羽伝」か「張飛伝」を見れば分かるんじゃないか、と。

 実は、「先主伝」の注『英雄記』に、


 霊帝在位の末年、劉備はそのとき都にいたが、曹操と一緒に沛国へ戻り、募集をかけて人数を集めた。ちょうど霊帝が崩御し、天下は混乱に陥った。劉備もまた軍を起こして、董卓討伐に従軍した。


 とあるのが、唯一の記述です。「関羽伝」や「張飛伝」には、参加したことすら書いてないのです。本伝だけで見れば、劉備三兄弟は実際に参加したかどうかすら、怪しいのです。

 この注の入っている次の箇所で、「賊軍に敗れた。公孫瓚【こうそん・さん】の元へ逃げた」とあるのですが、もいも賊が董卓のことならそう書くはずなので、これは山賊のたぐいでしょう。となるとなおさら、連合軍としての位置付けはないように思われます。軍を挙げて連合軍へ行ってはみたものの、連合軍の大半は地位のある人たちばかりで立ち位置すらないまま時間は過ぎて、解散しちゃったので公孫瓚の元へ行っちゃった・・・のではないかな、と想像してみます。

(この辺り、陳寿の記述が簡潔すぎて、状況がつかみづらいのが弱点。劉備が本当に都にいたかどうかすら、はっきりしません。ちなみに『武帝紀』では、故郷に戻った曹操に劉備が一緒にいったとは書かれてません。そういう意味では、この記述の信憑性が高いかどうか判断がつきかねます)


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 さて、董卓を暗殺しちゃった呂布。

 このまま救国の英雄として崇め立てられると思いきや、まさか波乱の人生が待ち受けているとは露ほどにも思わなかったことでしょうね。


 というわけで、(2)へ続きます。



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