贅を尽くしたこのピックアップ、この当時

輸入ピックアップの人気機種ディマジオより

工場の原価が高額で、低価格帯に搭載するのは

無理だったが高額機種にはこぞって採用された。


多数の外タレにこれを搭載したギターが手渡された。

なかにはギターは欲しがらずピックアップだけを欲しがり

持ち帰ったアンディー・ラティマーみたいな人もいた。


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無論、当時の出来具合に100%満足していた訳ではなく

仕様を変更、改善したかったが工場側との折衝が上手くいかず

発展も進化も進める道は閉ざされてしまった。


ミントコレクション発足時にボビンの改善だけは出来たが

もはやそこまでだった。



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新しいボビンになってすぐ、私の知らぬ内に仕様が

改悪された・・・。コイルの在庫が尽き、凡庸なウレタン線に

なってしまっていたのだが報告は無かった。


あの豊かなトーンは完全に失われその後復活する事はなかった。

その頃私は、大手プロモーターのスタッフと

かなり親密な付き合いがあり、その彼も

ギターを弾いていたので外タレのギターに関して

色々相談される事も少なくなかった。



無論、普段彼が外タレの機材関連で

困った時に(急な修理など)私がいつも

大至急で対処したりしていたので

重い信頼を得るに至ったのだ。



さて、その彼に件のギターを見せると

外タレに見せたいので預かりたいと言う。


別に市販が予定されている訳ではないので

快諾し、ギターは彼の手元に・・・・・・



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数日経ったら連絡が来た。

彼からギターを見せられたドン・フェルダーが

この音を気に入ったので欲しい、との事だった。


後日新たに製作したギターに載せて送る、と

言う事にしたがこのPUが認知され私も彼も

そこそこ喜んだのであった。


しかし、まだ物足りない。本来私が狙った音とは

近いとは言え、まだかなりの隔たりがあったからだ。


次の松本出張の折に前述の牛丸氏と再び打ち合わせ。


思い切ってマグネットを仕様変更した。

牛丸氏は私の欲しかった音を的確に

把握していたのである。


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ここらへんで私が個人的に親しくしていた

音楽産業では今や知らぬ者が居ないっ!と言う

大物が、まだプロデューサー兼スタジオミュージシャンとして

活躍していたので彼に一本、同じギターを手渡した。


こちらは数日後、連絡があり大変満足との事。

彼はそのギターで当時オンエアされていた

ゴールデンタイムのTV番組で演奏していたのだが

番組初回から全てこのギターで通してくれた。



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牛丸氏から再びの提案。


サンプル(試作用)という事で少量在庫のあった

USA製のコイルがあるという。早速それで

三度目の試作をこしらえた。


結果は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



私の希望に極めて近いものが出来上がった。

これを試したサンタナが欲しがったので

彼にも後日、発送をした。



社内よりも外タレが先に認知してくれたこのPU, 

この先も続々と外タレが絶賛してくれた。



企画会議にて発売が決定した、この労苦の結晶に

商品名を冠する事となった。私は従来のU-300とか

PU-2とかと言った無機質なネーミングを嫌っていたので

「名は態をあらわす」の例え通り音色に最も相応しい

「DRY」を名付けた。アサヒビールより前の事である。



(以下次号)





もうかれこれ30年以上前に私がデヴューさせたハムバッカー。

私が当時GRECOと深く関わっていたのは周知の事実、

別に隠すような話ではないので有態に書いてしまおう。


当時GRECOを製造していたのは富士弦楽器、現在の

FUJIGENだった。嘱託として開発や改善を行うため

頻繁に松本まで出張をしていた。


体力が違う、若かったんだね(笑)


私の要望を一番理解し、協力を惜しまなかったのが

この尊大で唯我独尊の私を以って最高のエンジニア、

と敬意を込めて賞賛したい 「努力する天才」 牛丸氏である。


牛丸氏は木工のみならず、電子関連でも知識深く

あのGRギターシンセサイザーを開発した事でも

判るようにその才能はダントツであった。



牛丸氏と新しいピックアップの試作を開始したのは

1979年の初夏である。松本の水田が稲の緑に

覆われていたのを今でも鮮明に記憶している。



一週間の出張でこれに取り掛かった。

嫌になるほどの打ち合わせの末に

出来上がったピックアップは外見上

普通のハムバッカーだったのである(笑)


これを私達が試作したオリジナルシェイプの

ソリッドギターにマウントし後日神田商会に

送ってもらったのが一号機だった。


これがあらゆる部分で大忙しになる発端だったのだ。


(以下次回)