去年の後半戦、このグノーシス主義とは一体なんであるのか、について色々と勉強した。きっかけは例の「統一教会問題」である。「統一教会」のあの強引な勧誘とか、人の人生を滅茶苦茶にする膨大な額の「寄付」というものは一体どこから生まれてくるのか、おそらくそこには彼らの信仰内容が「現世否定」「来世救済」にあるからだろうというのが、僕の見立てだ。
新興宗教による強引な勧誘とか寄付は色々ある。しかし、信仰の内容が「現世利益」を肯定する場合、その人の生活が破綻するまで寄付をさせるということはあまりない。なぜなら、それでは「現世」で幸福になれないからだ。もちろん「現世の幸福」とは一体どんな状態であるのかは人それぞれであるように、宗教的な意味での「幸福」と一般的な「幸福」が全く逆の場合は大いにありうる。とはいうものの、「現世否定」「来世救済」の宗教の場合であれば、その信仰の証として現世の「利益」を全て捨ててしまうことがより積極的な意味を持つであろうことは否定できない。
現在、キリスト教者は「統一教会」をキリスト教とは決して認めない。かつての彼らの名称であった「世界キリスト教統一神霊教会」もその使用を禁じるように訴えている。そのことは知っている。だが、僕はキリスト教が「現世否定」の思想を全く否定しているとは思っていない。これまでの人生で何回かキリスト教式の「お葬式」に参列したことがあったが、そこでの「お説教」の主旨はやはり「故人はこれから主のおられる天国へと旅立つのですから、皆で祝福しましょう」というものだった。肉体の死はキリスト教徒にとって決してやはり「天に召される」「主の御許に行く」ポジティブなものなのである。
グノーシス主義と呼ばれる信仰は、このキリスト教の中にある現世否定的要素をより純粋に、より極端にしたものである、というぐらいの漠然とした知識はあった。それで、グノーシス主義を、そしてそれとの関係でキリスト教の内容を、その信仰の根拠になっている「聖書」を実際に読みながら勉強しようと思ったのだ。この投稿はその途中でのまとめである。
グノーシス主義とは一体何かーーを客観的な証拠をもとに語ることは極めて難しい。僕が今読んでいる本は写真であげた四冊なのだが、いずれの本でも、この「グノーシス主義」とはどんな教義の宗教なのかを大まかにしか確定できてない。なぜなら現存する資料が少なすぎるからである。「グノーシス主義者」と名指しされている人物が直接言ったり書いたりした記録は殆ど残ってない。一番多い資料はこの「異端の教え」に反駁しようとした古いキリスト教徒の書いた書物である。なので、ともかくここでは僕が理解したことだけを、僕の言葉と責任において書いていくことにしたい。
その上でグノーシス主義とは何かというと、それはまず我々が生きているこの世界は「不完全」ないしは「否定されるべき」ものである、というところから始まる。この場合の「世界」とは「物資的世界」のことと言ってもいい。我々が生活する「大地」も目に見える「空」も「宇宙」も「世界」であり、その中で我々は死すべき肉体を持ち、その肉体はさまざまな食物を摂取することで「生きている」。これら全てが否定の対象となる。
では、一体何が肯定されるのか、それは「精神」である。もちろんここで僕が「精神」と言っているのは、「肉体」とか「物質的世界」に対するものとしての「精神的なもの」であって、それをどう呼ぶかは色々である。問題なのは、我々人間は「物質的な世界」の中にいて、物質でできた肉体を持っているが、それ以外に、そうした世界にとらわれることのない「精神」というものを持っているという理解だ。
そして、その「精神」あるいは「精神的なもの」だけが、唯一「最高(至高)神」とつながることができる。このように世界と人間、「物質界」と「精神」の関係を捉えることのできる「叡智」こそが救いとなる。「グノーシス」とはこの「叡智」にあたるギリシア語からきている。
ただ、これだけでは「グノーシス主義とは何か」ということに答えたことにはならない。今まで述べたようなことだけだったら、それは仏教の中でも同じようなことは言われている。仏教とくに原始仏教は十分に現世否定的であり、この世の中での栄耀栄華の全てを否定し、禁欲的な生活を過ごすことで「悟り」をひらくことを目指している。「悟り」とは「森羅万象を貫くことわり」を掴み、それに従った生き方を知ることだ。今まで僕が述べたようなことだけを「グノーシス主義」の言いたいことだと理解するなら、それは「仏教と同じ」と言って済ますこともできる。実際、写真にある『グノーシスの神話』の著者は「グノーシスのいう至高神とは人間のことだ」と言い、「グノーシス主義とは徹底した人間至上主義である」と言っている。
僕に言わせると、それは言ってみれば「観念論」「形而上学」というものの成り立ちを否定した、一種の「唯物主義」ではないかと思う。もちろん、グノーシスであれ、普通のキリスト教であれ、仏教であれ、事実の問題として考えれば、それらは全て「人間が考えたもの」にすぎない。「精神」と言われるものはおそらくは人間の肉体のうちの「脳髄」の働きに最も関係が深く、この脳髄は自分が属している肉体とか肉体が生存するための環境とかを離れて、勝手に色々なことを「考え」「想像」することができる。だから、「精神」はそれ以外のものを全て否定することもできる。
しかし、このように人間の「思考の産物」に過ぎないものが、世界も人間そのものをも否定するような結論を導き出し、そこに人を従わせることが「人間至上主義」であるとは思われない。たとえ、「叡智」によって世界の秘密を知るのが人間(の精神)であろうとも、そのことを理解した人は「現世」では「神の代理人」のごとく、自らを含む「人間」を否定し、「至高」のつまり観念の上にしかいない「神」を尊重するからである。
ここから、「殉教」という問題が生まれてくる。信仰とは単なる「認識」ではなく「生き方」=「価値判断」なので、当然そうなる。人間にとって重要なのは「叡智」とその元となる「精神」だけであり、肉体とは不完全か否定すべき世界の産物でしかないと信じる人に取り、その教義を守り、そのために死んでいくことは二重の意味でーーつまり「至高神と一体になる」という意味と、そのような教義を守り抜いたという意味でーー肯定的なものとなるだろう。
この殉教の問題は、やはりグノーシス主義を考えるときに避けて通れない。グノーシス主義について、その教義内容については諸説あるものの、宗教的運動としてのグノーシスがはじまったは1世紀後半から2世紀であるということについては共通している。この時代はイエスがエルサレムで磔刑に処せられてからおよそ50年〜100年経ったぐらいで、原始キリスト教が活動し始めた頃だ。
その時キリスト教徒は西方のローマ帝国内では多くの信徒がローマ帝国によって殺された。他方東方ではローマ帝国ほど迫害を受けてはいなかったが、「真のキリスト教」を自己規定とするマーニー教などグノーシス主義の中に分別される宗教は、色んなところで既存の宗教や政治的支配者によって迫害され、殉教者を産んでいる。これは僕の印象なのだが、この頃のグノーシス的宗教は本家である原始キリスト教よりも「布教」において積極的であり、その分迫害も殉教者も多い気がする。
キリスト教の正統派と呼ばれる流れとグノーシス主義は、普通に考えるとまず前者があって後者が「異端」として存在すると思われるのだが、僕はむしろ逆で、迫害や殉教の危険をより恐れない「異端のグノーシス主義」の方が先行して布教を進め、それから「正統派」が広がっていく、つまり戦争で言えば「先鋒隊」の役割をグノーシスが果たし、より安定した基盤が確保されてから「正統派」が陣地を広げるということだったのではないか、とも考えるのだ。その意味で、グノーシス主義はやはり、キリスト教内部に生まれた「異端」である。それはユダヤ教内部での宗教改革運動の担い手だったイエスといいう人物の磔刑による死を「全人類の罪を贖うための受難」とし、そのイエスの「復活」と「昇天」をもって、人類に福音がもたらされたとするキリスト教の始まり抜きにはあり得ない。イエスの生き様についての使徒たちの証言=福音書と、その前提となるユダヤ教の律法=「旧約聖書」と呼ばれるもの、この両者を合わせた「聖書ストーリー」(これは写真にある『マニ教』と『古代オリエントの宗教』の著者青木健の命名)を如何に受け止めるのかを出発点にして生まれた宗教なのである。という、全く内容に入らない、入口の扉を見ただけの状態で、次に続く。