「シンエヴァンゲリオン」考ーーその「はじまり」から「おわり」に見る日本の「モダン」と「ポストモダン」思想の行方
①なぜキリスト教だったのか
僕は「新世紀エヴァンゲリオン」から「シンエヴァンゲリオン」へと至る「エヴァの物語」に関しては「初心者」といっていいだろう。だいたいこの「エヴァの物語」を語りたいと思う人は1995年に始まったテレビ版アニメから見ている。だから当然旧劇場版も見ている。その上で新劇場版とその最終話としての「シンエヴァンゲリオン」を見ているのである。
だが、僕はテレビアニメ版を知らないし旧劇場版も見ていない。見たのは今回の最終話につながる新劇場版だけである。それでも、何か書いておこうと思ったのは、これまで僕が見てきた限り、「エヴァの物語」を語る人たちが、あまりにも細部にこだわりすぎているからだ。もちろん、それが「マニア」という人たちのマニア足る所以と言えばそれまでだが、このアニメ作品はそういう「マニア同士のうんちく話」で済ますには惜しい要素が満載である、と僕には思える。この物語の内容、特に物語の締めくくりについての変遷には、僕らの住む日本社会がこの30年近くの間に経験してきたこと、あるいは経験によって検証された様々な「思想」や「社会通念」についての評価が反映されている。僕には何よりもそこが重要なのではないか、と思える。あるいはそこに、コロナ禍という状況から僕らがどう脱出するのか、その糸口が見えてくるかもしれない。そう思って長々とした表題をつけた。1990年代から今日まで、それは「社会主義」が崩壊して「資本主義一強」の社会となり、新自由主義が世界を席巻した30年でもある。それは「近代」がある一つの「到達点」に達した時期とも言える。そのプロセスでこのアニメは作られた。それが作られたのも、それが「社会現象」と言われるヒット作になったのも、いわばその時代を生きた我々の「思想」あるいはもっと単純に我々の社会に対する「態度」の故である。そういう補助線を引きながら、以下「エヴァの物語」を考察していきたいと思う。
最初に問題にするのはそもそもこの「エヴァンゲリオン」がなぜ「聖書」をモチーフとして作られたのか、である。そもそも「エヴァンゲリオン」という名前そのものがキリスト教でいう「福音」のことである。それがなんで「汎用人型決戦兵器」の名前になったのか、これ一つをとってもマニアの間ではいろいろな説があるわけだが、もちろんそこに関わることはしない。「死海文書」「ネブカドネザルの鍵」とか「リリス」とか「アダムス」とかは何を意味しているかなども同様だ。そういう細部のことではなく、一体なぜキリスト教=聖書だったのか、が問題だということである。どうせ元の宗教的教義など換骨奪胎しているのである。その他の神話ーー例えばギリシア神話とか北欧神話ーーでも別に良かったはずである。それなのになぜキリスト教が選ばれたのだろうか。
それは、「世界の破壊と再生」が未来のある時点においてやってくるという歴史観ー世界観を持っている宗教はユダヤーキリストーイスラムと続くいわゆる「セム的一神教」以外にはないからであり、さらにいえば、この(これ以下では便宜上一括して「キリスト教的世界観」ないし「歴史観」と呼ぶ)「キリスト教的歴史観」が近代における我々の「歴史ー世界認識」のベースになっているからである。
ユダヤ教に始まり、キリスト教およびイスラームの教えへとつながる一神教が他の宗教と大きく違う点、それはこの世界はいずれ「神」なるものの手によって根底から覆され、その後に真に神が願ったような世界が訪れる、その時にはこの世の生きとし生けるものはもちろん死者の魂も全て神による裁きを受け、「永遠の王国」で安らえるものと業火に焼かれ続けるものとに分けられる、と「予言」しているところにある。いわゆる「最後の審判」である。この「予言」を最もはっきりと書いているのが新約聖書での「ヨハネの黙示録」だが、原型はユダヤ教にもあったらしい。ユダヤ教の場合にはその「未来における神の破壊と創造」において救われるのはユダヤ人だけだったのだが、イエスキリストは「神の御業」を信じる全ての人は救われるのだと説いた。この「信じる者は皆救われる」ということ、それが「福音」である。
これがどう「特別」なのか。たとえば、仏教を通じて広まったインドを起源にする世界観と比べるとよくわかる。インド的世界観では生きとし生けるものは皆六道を輪廻するものであり、現世の行いによって来世の「道」が決まる。現世であまりにも悪行を続ければ行くところ「地獄」であり、そこでは現世の業に応じた罰が永遠に続くことになっている。たとえ地獄に落ちなくても、生きとし生けるもの皆この六つの「道」を永遠に生き代わり死に変わらなければならないというのが基本だ。この永遠の輪廻の宿命から逃れる(=「解脱」)ことが信仰の目標ということになる。
この輪廻を繰り返すのはあくまでも「個人」というか「個体」としての「生命」である。個体としての生命が個体としての寿命の中で裁かれるし救われる。従ってその「裁き」や「救い」も個々にしか訪れない。その死の時にそれは行われるわけであるが、世界全体に見れば命あるものは毎日、この瞬間にも裁かれ続け、それは永遠に続いていくのである。従って、至福の地としての「天」も永劫の罰を強いられる「地獄」も、我々の住む世界とともに存在しており、今この瞬間も生命は裁かれ、救われて六道のうちを行き来しているということになる。
ところが、キリスト教的歴史観では「全ての人間(とその魂)」がある時点で「一挙に裁かれる」のである。しかも、キリスト教の場合、この未来のある一点の時を境に、あるものは永劫の「地獄」に落ち、あるものは永遠に「天国」に安らうのである。だから、「徳」を積んで「生まれ変わる」こともできないし、「審判」で「有罪」とされたものは永遠に救われない。
そして、この「最後の審判」の前には幾多の「破局」=「カタストロフィ」が待っている。それは「7つの封印」によって封じられていた災厄であるが、それらが続いたのちにこの審判があり、そしてその次に「神の国」が到来する。大雑把にいえばこうなっている(細かいことは聖書そのものを参照してください)。
近代という時代の到来以来、我々は基本的にこのキリスト教的歴史ー世界観の中で生きている。それはこの日本においても同様で、我々はほとんど意識しないが、そう思っているのである。
そもそも今我々が世界標準としている「西暦」という年号の単位は、「イエスの誕生」を「0年」とすることによって成立したものだ。そこがなぜ「ゼロ」であるかというと、「始まり」だからである。イエスが生まれ、地上へ「神からの福音」つまり「破局とそこからの救いについてのメッセージ」を届けるものが現れたことが、「歴史」というものの始原となり、そこから「終わり」あるいは「目標」である「最後の審判」までの道のりははじまった。その「始まり」から「終わり」に向かっての「どこか」の地点に「今」我々はいる、そのことをこの年号と、それに基づく「歴史記述」は存在するのである。
この歴史観の中で我々は、この「始まり」から「終わり」へと、未来における「破局」=「カタストロフィ」と「神の国」の到来に向けて「不可逆的」に「進んで」いる。「破局」を中心にすれば、世界はいずれ破滅するという「終末論」になり、「神の国」の到来を視点にすれば、我々は「永遠の繁栄」あるいは「幸福」に向けて進んでいることになる。いずれの場合でも、我々の目は「今ここ」から「明日」へあるいはずっと先の「未来」へと向かっている。
このように歴史があるいは世界がある到達点に向かって変化していくものだという考えを「目的論的世界観」ということもある。「エヴァの物語」はこのようなキリスト教的歴史ー世界観に則って作られているのである。碇ゲンドウら旧「NERV」がまたその背後にあって彼らを指示する「ゼーレ」なる存在が目的としている「人類補完計画」の全貌は今回明らかになったわけだが、蓋を開けて見ればそれはこのキリスト教的世界観、「黙示録」に基づく「カタストロフ」と「神の国」の創造をカリカチュアライズしたものであることがはっきりした。ファーストインパクトが人類の創造、そしてセカンドインパクト以降の「破局」が「誤った方向」に進化した現人類の「浄化」と世界の再創造であるという「シンエヴァンゲリオン」の核心部は、とことん「聖書」に忠実な物語なのである。
それを「アニメの話だ」と一蹴することはもちろんたやすい。しかし、そういっている人がでは本当にこのような世界観から自由であるかは甚だ疑問である。なぜなら、この世界観は「神」というものの存在が形式上否定されている20世紀においても「革命思想」として生き残っているからである。その典型がマルクスに始まりレーニンや毛沢東へと引き継がれる「コミュニズム革命思想」だ。
マルクスが構想した「階級社会の終焉」としての「共産主義社会」は限りなくこのキリスト教的「神の国」の到来を思わせる。また、レーニン以後の「革命」にはこれに「世界戦争」という「破局の到来」が付け加わった。第一次大戦後のロシア革命、第二次大戦後の東欧の社会主義化や中国革命の成立は、「破局の後に理想の国が生まれる」というキリスト教的世界観を「神なし」で実現したかのようである。もちろん、当事者意識においてそんなことを考えているわけではなかろうが、とはいうものの人間の社会が「資本主義」から「社会主義」へと「進歩・発展」するものであるという「唯物史観の公式的立場」は歴史というものにある「目標」を与え、世界はその「目標」に向かって不可逆に進んでいくものであるという意味で、決してキリスト教を「超えた」ものではない。
また、ソ連の崩壊とベルリンの壁の崩壊をもって「歴史の終焉」と称したフランシス・フクヤマの言説も同様である。さらにいえば、「破局とそれを通じた社会変革」という図式で「未来」を語る言説は今も尽きてはいない。2030年には気象変動が後戻りできない規模に達してしまうから、今からの10年で世界を「脱炭素社会化」しなければならないのだ、という現在の「地球環境危機説」についても、その片鱗は決してないとはいえない。もちろん僕は個人的にはだから「気象変動」などでっち上げだ、SDG‘Sは意味がない、と直ちにいうつもりはない。しかし、こうした「終末論的社会変革論」が「神なき時代」の「黙示録」として、繰り返して登場していること、そしてそれは西洋近代的発想の中にしっかりとインプットされたキリスト教的歴史ー世界観の影響であることを我々は見落としてはならないのである。「エヴァンゲリオン」が多くの人の心を捉えたのは、このようなところ、つまり「近代合理主義」と言われるものの考え方の中に、実は決して合理的には説明されえない「前提」が存在していること、それをわかりやすく示したことにあると思う。最近流行りの言い方でいえば、「可視化」である。そこが「リアル」なのだ。物語自身は荒唐無稽であり、説明されてないこと、辻褄が合わないことに満ちているにもかかわらず、みている側が情報を勝手に補充し、勝手に整合性を作り、それを言い合っているという「エヴァ現象」とは、「近代主義」とは突き詰めていけばこうなってしまうんだよ、ということを遠慮会釈なく突きつけたから起こったのだ。
「エヴァの物語」は「絵空事」だが、ただの絵空事」ではない。碇ゲンドウの「妄想的野望」もはただの「妄想」ではない。それは「近代」という我々が生きる社会の規範となっている発想(=パラダイム)が生み出す「絵空事」であり「妄想」なのである。
(続く)