

上にリンクを貼ったのは、木村草太氏のコラムである。
木村草太氏は、若手の憲法学者として昨年の「安保国会」の頃から注目されている存在だ。今は安倍政権による改憲の動きに反対する「立憲デモクラシーの会」の発起人にもなっている。そういう人のコラムなので期待して読んだのだが、残念ながら、今の「リベラル」あるいは「左翼」といわれる人たちの限界を知ることになってしまった。
この記事でとり上げているのは、「組体操で骨折した生徒」を題材にした道徳のテキストであるが、木村氏はそもそも「組体操で骨折事故があった」ことを「道徳の教材」にすることがおかしいという。当該のテキストでは、自分がけがをしたのは友達のせいだとする児童に対して母親が「本当につらいのはけがをさせてしまった○○ちゃんの方だと思うよ。」と諭し、「友達の気持をお思いやることの大切さ」を説いている。木村氏はこのエピソードはそうした「道徳の題材」ではなくて、「事故の原因』「責任の所在」「一部の児童がバランスを崩してだけで骨折という事故を起こす組体操の危険性と、その教育的意義とのバランス」などを考えるための――つまりは「法学の教材」にすべきである、というのである。それがそうなっていないのは学校という場が「法の支配」に与しない一種の「治外法権」になっているからだ、「学校内道徳が法の支配を排除している」からだ、という。
この指摘は「組体操」の危険が問題にされている今、小学校の授業や運動会などでそれを実施すべきかどうか、それを誰が、どのように判断すべきか、という問題を考えるためなら100%ではないにしても充分に正しい。「困難を仲間と乗り越えることの大切さ」という「道徳的価値」を追求するためとはいえ、「骨折」などの重大な危険性への配慮を欠いてしまってならない、というのもその通りである。
木村草太氏は、若手の憲法学者として昨年の「安保国会」の頃から注目されている存在だ。今は安倍政権による改憲の動きに反対する「立憲デモクラシーの会」の発起人にもなっている。そういう人のコラムなので期待して読んだのだが、残念ながら、今の「リベラル」あるいは「左翼」といわれる人たちの限界を知ることになってしまった。
この記事でとり上げているのは、「組体操で骨折した生徒」を題材にした道徳のテキストであるが、木村氏はそもそも「組体操で骨折事故があった」ことを「道徳の教材」にすることがおかしいという。当該のテキストでは、自分がけがをしたのは友達のせいだとする児童に対して母親が「本当につらいのはけがをさせてしまった○○ちゃんの方だと思うよ。」と諭し、「友達の気持をお思いやることの大切さ」を説いている。木村氏はこのエピソードはそうした「道徳の題材」ではなくて、「事故の原因』「責任の所在」「一部の児童がバランスを崩してだけで骨折という事故を起こす組体操の危険性と、その教育的意義とのバランス」などを考えるための――つまりは「法学の教材」にすべきである、というのである。それがそうなっていないのは学校という場が「法の支配」に与しない一種の「治外法権」になっているからだ、「学校内道徳が法の支配を排除している」からだ、という。
この指摘は「組体操」の危険が問題にされている今、小学校の授業や運動会などでそれを実施すべきかどうか、それを誰が、どのように判断すべきか、という問題を考えるためなら100%ではないにしても充分に正しい。「困難を仲間と乗り越えることの大切さ」という「道徳的価値」を追求するためとはいえ、「骨折」などの重大な危険性への配慮を欠いてしまってならない、というのもその通りである。
問題は、しかし、木村氏がこの論法で「道徳教育」あるいは「学校内道徳」一般を批判するところにある。「道徳」というのは教科の名前であるから、あえて普通の言葉に直せばそれは「人としての正しい言動とはなにか」ということになるのだろう。
そのことについて木村氏は、非常に明解な答えを出している。それは「法に基づいて判断すること」である。なぜか。「法」とは「普遍的価値を追求するための行動規範」だが、「道徳」は「同じ道徳観を持つ人の間のルールにすぎない」からだ。
「学校内道徳」は、「学校の中だけで通用するルール」である、従ってそれはあくまでもより「普遍的なルール」である「法」より上位にあってはならない。まして「違法性」が問われるようなこの「組体操事故」のような問題で、「学校内道徳」が「法」よりも上位にあってはならない、というわけである。
しかし、本当にこのような「法」と「道徳」の分け方、相互関係は正しいのだろうか。
もともと、「道徳」というかたちで論じられるべきことは、人間にとっての「普遍的価値」とは何かを問うことである。「道徳」=「特定の人々の価値観」「法」=「普遍的価値観」というのは木村氏の考えであり、あえていえば、「法学者」としての立場上の見解であるにすぎない。もちろん、「法」は罰則規定や強制力を持つという意味で「普遍的価値」に基づいている「べき」である。しかしすべての「法」がそうだとは限らない。むしろ「法」はソクラテスが「悪法もまた法である」といって、自らは否定する法律とその下での裁判で死刑を宣告されたことに従ったギリシア時代より、「人間にとっての普遍的価値」からみて妥当かどうかを常に「判断される対象」としてあった。「法治主義」の社会ではそれゆえ「悪法」の存在をどう処するのか、論議はつきない。結局それは「正義とは何か」「人類の普遍的価値とは何か、それは存在するのか」という「正解のない問い」が含まれているからである。
だから、「成文法」は改正されたり廃止されたしているのであるし、憲法のような「法のための法」もまた改正されたり廃止されたりする運命の下にある。「法」には「法」を支える価値観が常に付与されているが、その価値そのものを吟味すること(メタ法学)が背後に必ずある。従って、或る程度以上のレベルになると「法学」は「成文法」に書きれない内容を含んでしまう。(近代的「法治国家」の元祖ともいうべきイギリスには、それゆえ成文化された「憲法」はない)それは「法」=成文法が人間が作ったものである以上当然のことである。「法」の中に「普遍的な価値の追求」が込められているのことを指摘するのは正しい。そしてそれが「学校」や「会社」などの「特定の集団のルール」よりも「より正しい」場合があることを指摘するのも間違っていない。しかし、それはあくまでも、どちらの考え方がより「普遍的」で「妥当」であるかをめぐって行われるべきであり、「法律」が「学校内道徳」に無条件で優先されるべきだと考えるのは正しくない。それはいわば、「法律家」としての「公式的立場」であって、それを離れたところその真理性を保証されたことではない。その意味で木村氏の立論は「学校内道徳」がすべてだと考える教育関係者と同じレベルの、「職業的偏向」が見られるのである。そうである限り「学校には学校のルールがある。外の社会の法律だけでは運営できない」といわれるのがおちだ。
なぜなら、近代社会は「子供」を(今の日本では大学生ですら)「社会人」と同じ「権利」を持つ存在とは考えていないからである。小学生や中学生は「自分の判断」で行動する自由が制限されている。その意味で「子供の人権」はあらかじめ制限されている。「子供」は「教育」によって「判断力」を身につけなければ自分一人で「正しい判断」することができないという前提があるからだ。
そのため、「教育」にはいわゆる「知識としての学問」だけでなく「社会のルール」「習慣」を学ぶことも必要とされる。また、「判断力のない子供」が「外の世界の悪弊」に影響されないような「生活上のルール」も決められる。それが「校則」であり、「学校内道徳」もそこから生まれる。
世の中には理不尽な「校則」がまだまだある。そして教師が「権力者」然として子供たちにいろいろなことを強制する結果、理不尽な扱いがされている現場もたくさんある。それでも「校則」なんていらないとか、「生活指導」や「集団行動」をやめろという声は起きない。「生活指導」などは「親」がなすべきことまで教師が代替しているのが現実である。それは「子供」は「社会人」とは違う、「育てられ」「守られる」べき存在であるという前提を社会が共有しているからである。
そのことに、つまり「法の下の平等」をわれわれは「子供」に適用していない、という「暗黙の前提」に気をとめない限り、木村氏のいうような論理は「空論」として退けられる運命にあるか、さもなくば子供ではなく「親のエゴイズム」に利用されカかねない側面がある。
木村氏は「組体操」をやるべきかどうかは行政法における「比例原理」で考えるべきだ、という。それは「教育とは普遍的価値を追求すべきであり、そのために最も効果的で弊害の少ない方法をとるべきだ」というものだ。しかし、この原則はとりようによっては知的身体的なハンディキャップを持った子供たちとそうでない子供たちを一緒に教育するというようなことを「非効率」として斥けようとする親たちの意見をフォローすることになる。また、本文にも取り上げられているが「中学受験」や「習い事」に重きを置いている生徒・児童(とその親)が「学校行事」を軽視する傾向を助長する口実にもなる。「子供」には権利が認められていないが、「親」は権利行使の対象であり、「形式的平等性」の立場からすればその要求を無視することはできないからである。しかし、そこで本来論じられるべきなのは「よい教育とはなにか」という「内容」である。しかし、その内容とはまさに「道徳的価値」の範疇に入る。そこを木村氏はどう考えているのだろうか。
僕が思うに、本当に木村氏のいうような論理を通用させるためには、「教育の内容」を「子供たち自身」に選択させる権利を与えなければならないのである。もちろん、それは「自分で教育内容を選択できるような力を身につけさせる」というプロセスを経ないといけないわけで、結局は堂々巡りに終わってしまう。ただ、ぼくはそれでも、学校生活の様々な場面でできるだけ多くのことを「子供自身」が決めるように促していくべきだと思う。教師の都合でも「親のエゴ」でもなく、子供たちが自分たち仲間のためにどうしたらよいのか、どういうルールが必要なのかを考えさせる、そういう経験をできるだけ積ませていくのだ。そうした先に見えてくる何かが、「正解のない問い」への「答え」なのではないか、と思う。僕はそのことを自分の経験と『ソロモンの偽証』から学んだ。
そのことについて木村氏は、非常に明解な答えを出している。それは「法に基づいて判断すること」である。なぜか。「法」とは「普遍的価値を追求するための行動規範」だが、「道徳」は「同じ道徳観を持つ人の間のルールにすぎない」からだ。
「学校内道徳」は、「学校の中だけで通用するルール」である、従ってそれはあくまでもより「普遍的なルール」である「法」より上位にあってはならない。まして「違法性」が問われるようなこの「組体操事故」のような問題で、「学校内道徳」が「法」よりも上位にあってはならない、というわけである。
しかし、本当にこのような「法」と「道徳」の分け方、相互関係は正しいのだろうか。
もともと、「道徳」というかたちで論じられるべきことは、人間にとっての「普遍的価値」とは何かを問うことである。「道徳」=「特定の人々の価値観」「法」=「普遍的価値観」というのは木村氏の考えであり、あえていえば、「法学者」としての立場上の見解であるにすぎない。もちろん、「法」は罰則規定や強制力を持つという意味で「普遍的価値」に基づいている「べき」である。しかしすべての「法」がそうだとは限らない。むしろ「法」はソクラテスが「悪法もまた法である」といって、自らは否定する法律とその下での裁判で死刑を宣告されたことに従ったギリシア時代より、「人間にとっての普遍的価値」からみて妥当かどうかを常に「判断される対象」としてあった。「法治主義」の社会ではそれゆえ「悪法」の存在をどう処するのか、論議はつきない。結局それは「正義とは何か」「人類の普遍的価値とは何か、それは存在するのか」という「正解のない問い」が含まれているからである。
だから、「成文法」は改正されたり廃止されたしているのであるし、憲法のような「法のための法」もまた改正されたり廃止されたりする運命の下にある。「法」には「法」を支える価値観が常に付与されているが、その価値そのものを吟味すること(メタ法学)が背後に必ずある。従って、或る程度以上のレベルになると「法学」は「成文法」に書きれない内容を含んでしまう。(近代的「法治国家」の元祖ともいうべきイギリスには、それゆえ成文化された「憲法」はない)それは「法」=成文法が人間が作ったものである以上当然のことである。「法」の中に「普遍的な価値の追求」が込められているのことを指摘するのは正しい。そしてそれが「学校」や「会社」などの「特定の集団のルール」よりも「より正しい」場合があることを指摘するのも間違っていない。しかし、それはあくまでも、どちらの考え方がより「普遍的」で「妥当」であるかをめぐって行われるべきであり、「法律」が「学校内道徳」に無条件で優先されるべきだと考えるのは正しくない。それはいわば、「法律家」としての「公式的立場」であって、それを離れたところその真理性を保証されたことではない。その意味で木村氏の立論は「学校内道徳」がすべてだと考える教育関係者と同じレベルの、「職業的偏向」が見られるのである。そうである限り「学校には学校のルールがある。外の社会の法律だけでは運営できない」といわれるのがおちだ。
なぜなら、近代社会は「子供」を(今の日本では大学生ですら)「社会人」と同じ「権利」を持つ存在とは考えていないからである。小学生や中学生は「自分の判断」で行動する自由が制限されている。その意味で「子供の人権」はあらかじめ制限されている。「子供」は「教育」によって「判断力」を身につけなければ自分一人で「正しい判断」することができないという前提があるからだ。
そのため、「教育」にはいわゆる「知識としての学問」だけでなく「社会のルール」「習慣」を学ぶことも必要とされる。また、「判断力のない子供」が「外の世界の悪弊」に影響されないような「生活上のルール」も決められる。それが「校則」であり、「学校内道徳」もそこから生まれる。
世の中には理不尽な「校則」がまだまだある。そして教師が「権力者」然として子供たちにいろいろなことを強制する結果、理不尽な扱いがされている現場もたくさんある。それでも「校則」なんていらないとか、「生活指導」や「集団行動」をやめろという声は起きない。「生活指導」などは「親」がなすべきことまで教師が代替しているのが現実である。それは「子供」は「社会人」とは違う、「育てられ」「守られる」べき存在であるという前提を社会が共有しているからである。
そのことに、つまり「法の下の平等」をわれわれは「子供」に適用していない、という「暗黙の前提」に気をとめない限り、木村氏のいうような論理は「空論」として退けられる運命にあるか、さもなくば子供ではなく「親のエゴイズム」に利用されカかねない側面がある。
木村氏は「組体操」をやるべきかどうかは行政法における「比例原理」で考えるべきだ、という。それは「教育とは普遍的価値を追求すべきであり、そのために最も効果的で弊害の少ない方法をとるべきだ」というものだ。しかし、この原則はとりようによっては知的身体的なハンディキャップを持った子供たちとそうでない子供たちを一緒に教育するというようなことを「非効率」として斥けようとする親たちの意見をフォローすることになる。また、本文にも取り上げられているが「中学受験」や「習い事」に重きを置いている生徒・児童(とその親)が「学校行事」を軽視する傾向を助長する口実にもなる。「子供」には権利が認められていないが、「親」は権利行使の対象であり、「形式的平等性」の立場からすればその要求を無視することはできないからである。しかし、そこで本来論じられるべきなのは「よい教育とはなにか」という「内容」である。しかし、その内容とはまさに「道徳的価値」の範疇に入る。そこを木村氏はどう考えているのだろうか。
僕が思うに、本当に木村氏のいうような論理を通用させるためには、「教育の内容」を「子供たち自身」に選択させる権利を与えなければならないのである。もちろん、それは「自分で教育内容を選択できるような力を身につけさせる」というプロセスを経ないといけないわけで、結局は堂々巡りに終わってしまう。ただ、ぼくはそれでも、学校生活の様々な場面でできるだけ多くのことを「子供自身」が決めるように促していくべきだと思う。教師の都合でも「親のエゴ」でもなく、子供たちが自分たち仲間のためにどうしたらよいのか、どういうルールが必要なのかを考えさせる、そういう経験をできるだけ積ませていくのだ。そうした先に見えてくる何かが、「正解のない問い」への「答え」なのではないか、と思う。僕はそのことを自分の経験と『ソロモンの偽証』から学んだ。