先週末の名古屋~大阪行きの時、長い移動時間のために図書館で借りたこの本。帰りまで読んであと少しと言うところまできて、昨日読了した。
なんか、今回の旅行の成果はこの本を読み切ったことと、名古屋でマルセロに会えたことに尽きるような気がする。かなり、インパクトのある本ではあった。とはいえ、この本について人にわかるように語るのは非常に難しい。なにせ、内田氏が「師」と仰ぐこのレヴィナスという人のいっていることが難しすぎるのだ。しかもその難しさというのが、内田氏が本の中で書いているのだが、「顔」とか「家」とか「女性性」とかいう「ふつうの言葉」を用いながら、その実ある特別な意味をもたせるという作法にのっとっている。だから、レヴィナスの文章が出てくるたびに、「これはどんな意味でつかわれている言葉なのか」を考えながら読まなければならない。時間もかかるし、頭もつかう。そのうえ、言っていることは抽象的である。はっきり言って疲れるのである。では、そんな本をどうして読もうと思ったのか。もちろん、僕が内田樹氏のファンであり、内田氏が「師」と仰ぐレヴィナスという人がいったいどんなことを考えている人なのか知りたいというのもあった。でも、実際に読み進む気になったのは、この本の中で内田氏が「レヴィナスは、フッサールの現象学の方法を、『テキストを読む』ということにそのまま応用することができると考えた人だ」というフレーズがあったからだ。
この話はもちろん、じゃあ、現象学的方法ってなんだ、というややこしいことを前提にしないと本当はちゃんと話すことはできない。しかし、そこを強引にはしょって、僕の問題意識だけいうと、フッサールの現象学と言うのは「自然」みたいなものを相手にした、少なくとも書物などの「テキスト」に「これから書かれるかもしれない」ような「事象」をめぐっての「人間の意識のありよう」を考えたものだったはず。その方法が、「書かれたもの」の読み方にもそのまま適用できるというのは、どうにも腑に落ちないのである。
僕は音楽を演奏する人間である。そして、こうやって文章を書く人間である。また、日常的には当然人といろんなことを話をする。ライブの最中もよくお話をする。人によってはそのほうが面白いという人もいる。つまり、僕は自分の「こころ」―これだって定義づけようとするといろいろめんどくさいが、とりあえず、一般的な意味で考えてほしい―の中で感じたこと、考えたこと、思ったことを「書く、奏でる、話す」という三つの「媒体」をつかって表現している。どれもぼくにとっては重要な「媒体」であり、自分の中での順序はつけがたい。今、「音楽家」と自称しているのはその中で「奏でる」ことには「収入」が生じるからであるが、こうして文書を書く力が「お金」になるなら「文筆業」ということもあるだろうし、話すことでお金になれば「講演者」(?)ということにもなるのかもしれない。
何が言いたいのかというと、そういう複数の「媒体」をもって自己表現している身として考えると、確かにそれぞれの表現形態での意識のありようというのには「同じところ」が結構ある。しかし、日常的に感じることはむしろそれぞれの「差」の方が大きいということである。
僕にとって、「書く」ことが一番「不自由」であり、また神経を使う。なぜなら「書いたもの」はそれを公開したとたん、「どう読まれるか」は相手次第であり、その「読み方」について僕は基本的にどうすることもできないからである。もちろん、意図したことと違うように理解されたり、誤解によって感情を害した時に「反論」したり「言い訳」したりすることはできる。しかし、それでも最初に読まれた「テキスト」についての相手の印象までも全部消すことはできない。「反論」や「言い訳」によって新たに生まれただろう印象についてもそうである。しかも、そういうふうに「相手がどのような感想をもつか」を考えて文章を書こうとするとき、僕は往々にして自分の側の説明に字句を費やすことによって、相手の受け取り方への考慮がおろそかになることがある。相手にわかってほしいと思いつつ書いているはずが、実は「自分がどう考えているのか」ばかりを、つまりは「自分」だけを相手にしているのである。
それに比べれば、「話す」という行為は、その場に具体的な「他人」がいるし、その表情がみえる分だけ、僕にとっての「自由度」は増す。ニュアンスをいいかえることは可能であるし、自分の表情によって相手に「話の中味」以上のことを伝えることもできる。ただし、それは「対話が続いている」という前提があって初めてできることであり、「対話」が打ち切られるかどうかは相手次第である。
それに比べれば、「話す」という行為は、その場に具体的な「他人」がいるし、その表情がみえる分だけ、僕にとっての「自由度」は増す。ニュアンスをいいかえることは可能であるし、自分の表情によって相手に「話の中味」以上のことを伝えることもできる。ただし、それは「対話が続いている」という前提があって初めてできることであり、「対話」が打ち切られるかどうかは相手次第である。
「演奏」=奏でるということになると、僕の自由度はさらに増す。なぜなら、そこで伝えられるものは文章のような「確定した意味」ではないからである。つまり、「奏でる」ことにおける「自由」とは、送り手の思いと聴き手の思いの共振の内容にそうとうの差異が許される、「言葉の意味」のような厳密さを問題としないコミュニケーションであることから生まれる自由なのである。
たとえば、「思い出」と題された曲があるとする。それを僕は「これは『思い出』という曲です」と紹介して演奏する。そのとき僕は自分の中にどんな「思い出」についての感情を表現しようと自由である。ひいてはそんな感情に考慮しないことも自由である。そして、聴き手の側もまた同じことが成立する。聴き手一人ひとりが自分の「思い出」にひたるのも自由なら、僕の思い描く「思い出」はなんだろうと憶測するのも自由なのである。そういう意味でそこには「意味」のやりとりだけに縛られない(まったく縛られていないわけではないが)自由がある。
そのかわり、「奏でる」行為には「やり直し」というものが存在しない。時間軸にそって次々と「音」を繰り出す音楽という芸術では、一度出した音は訂正もなにも効かないままそこに存在し、消えていってしまう。会話のような「云い直し」もできない。その意味ではスポーツの試合に似ている。そして、スポーツの試合に厳密には「同じこと」が起きないように、(「同じようなこと」はいくらでもあるが)その場で生じたコミュニケーションも基本的には「一回きり」であり、再現性は基本的に望めない。
このような差異を日常的に感じているので、僕の中では「書くこと」「話すこと」「奏でること」のそれぞれについて、「伝えやすいこと」と「伝えにくいこと」の区別がなんとなく、経験的にわかってきている。そうした体験的なところからいくと、確かにある一つの行為の経験が他の行為にとっての「気づき」になることはあるが、それはほとんどが、より「体験的なこと」=つまり、感覚的で、抽象的であり、「意味」というものとして「ことば化」されたものから「より遠いもの」が「より近いもの」へと影響されるという順序をとるものだ思うのである。つまり「奏でること=聴くこと」>「話すこと=聞くこと」>「書くこと=読むこと」という形で僕には捉えられており、「書くこと=読むこと」によって得られるものは「意味」としての確定性が多い分だけ広がりに欠ける、逆に言えば、「テキストは開かれており、無限に解釈できる」というようなレヴィナスのいい方は、「体験的なもの」が人をしてそう読ませるということであって、体験が先立つということは揺るがないのではないかと思えるのである。
もちろん、「読む=書く」ということも「体験」であり、あるとき、単に書いている「以上のなにものか」をそこで体験することはあるだろう。ある文章がそれまでとは違った意味をもって自分の目に「飛び込んでくる」ということもあるだろうし、自分が何か「ものに憑かれたように」書くということもありうる。しかし、それはいわば「読み」の可能性を極限まで拡大することであり、「書かれたもの」への信仰にも近い絶対性を感じていないとでてこない発想である。
レヴィナスの場合、「テキスト」とは「聖書」とユダヤ人の生活全般を縛っている律法=タルムードである。そうした彼の信仰者としてもありようと、この「テキスト論」は切り離しては考えられない。ということは、信仰というものを相対化する人間にとって、あまり説得力がある話とは言えないようにも思えるのである。