アドルノ「ポピュラー音楽批評」斜め読みノート・その二 | 多弦Gutarist Tominha の部屋

多弦Gutarist Tominha の部屋

10弦・11弦という普通派では見ることがない多弦なギターを弾くギタリストTomonari.Cのブログ。音楽はもちろん、映画やら小説やら政治やら、思いつくままに書き連ねています。


「音楽批評」の動機付けとしては……
 
こうして解きあかしていけば、アドルノの音楽への接し方というのが非常に特殊なものであり、一面的であることがわかる。しかし、やっかいなのは、それは確かに一面的ではあるが、「音楽を論じる知的な方法」としては意外な説得力をもっているところにある。いや、もっと言えば、「音楽を分析することを通じて人間、社会のありようを分析する」というアドルノの評論は、音楽を愛する「知的エリート」に格好の動機を与える。音楽について「論じること」あるいはもっと一般的に音楽について何かを「書く」という行為を、アドルノは社会的文化的に定義づけてくれるのである。この魅力は個々の音楽への評価をはるかに超える影響力をもたらしている。
その辺の事情を知るにはこの平凡社から出版された「アドルノ音楽メディア論集」の巻末にある、編者の解説が非常に興味深いので少し紹介したい。一番面白いと思ったのは、次のような「アドルノ批判の構造」についての指摘である。以下は僕の要約。


“アドルノのポピュラー音楽批判を呼んでいると現代のわれわれとしては彼の音楽への評価があまりにも古臭く感じられる。そこで、この頭の固い「頑固おやじ」にひと泡吹かせてやろうとして、現代の音楽の中から、アドルノにも納得できるだろうものを見つけようとしがちである。そして、その音楽がどのように素晴らしいかを論述する。しかし、それはアドルノの批判をしているようで、実はアドルノの語法に完全に取り込まれた行為である。そして、20世紀、特に戦後のポピュラー音楽批評はいわばすべてこうした構造で、つまり、ポピュラー音楽を、アドルノがやったのと同じように「芸術音楽」と「商業音楽」を二分して、前者を称え後者を批判するものではなかったのか。「『インディーズ』に集まる聴衆を、『頽落した聴衆」と対比させて考えるとき」「商業主義にのっとったロックを『邪道』として軽蔑し『真正』な『本物』のロックを語る」とき、人々は実はアドルノの語法を無意識のうちになぞっている。”

そうそう、そうなんだよな~。いっぱいやりましたよ、僕も。「これは本当のジャズじゃない」とかなんとかね。このような態度はジャンルを問わず、音楽マニアの宿命みたいに今でもいろんなところで目にすることができる。根底にあるのは「何が自分の好みなのか」というだけの話であるにもかかわらず、いや、むしろそういう「白黒のつかない」問題であるからこそ、自分の「好み」を肯定してくれないものに対して食ってかかり、いかにそれが「くだらないもの」であり、自分の愛する音楽とは「レベルがちがう」ものであるかをあらゆる知識を動員して語らずにはおれない。
そうした音楽マニアにとって、アドルノの方法は願ってもない武器である。なにしろこれを手に入れれば、趣味嗜好の問題に「真理」という「お墨付き」を与えることができるからである。そのためにはアドルノの彼の方法と評価基準には同意しつつ、ポピュラー音楽の中から、アドルノのいう「芸術音楽」となるべきものを見つけることができればいい。そうすれば、あれほど敵視していたアドルノの言説は「最強の味方」に逆転する。アドルノが残した数々の「ポピュラー音楽批判」は「音楽エリート」になった自分と他人とを区別するために、またみずからが選別した「芸術音楽」とそうでないものを区別するためにあらゆる批判の言葉と基準を与えてくれる。しかも、それらの「大衆文化批判」は決してまちがっているとはいえず、その多くは今でも十分通用する。(たとえば、「ヒット曲」がどうして生まれるのか、そこにおけるマスメディアの役割など)なにしろ、それは単なる「音楽批評」ではなく、「人間学」であり「社会学」であり、「文明論」なのである。

うがった見方をすれば、アドルノがかくも執拗に「ポピュラー音楽批判」を繰り返したおかげで、「音楽批評」はたんなる「解説」や「宣伝」のレベルを脱して「文化論」の一ジャンルとなりえた。音楽は「単なる娯楽」から小説や絵画などとともに「批評の対象」として取り上げられたといってもいいすぎではないように思う。(まだまだつづく)