「映像の世紀」と音楽 | 多弦Gutarist Tominha の部屋

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10弦・11弦という普通派では見ることがない多弦なギターを弾くギタリストTomonari.Cのブログ。音楽はもちろん、映画やら小説やら政治やら、思いつくままに書き連ねています。

昨日の朝の「題名のない音楽会」は「日本における西洋音楽100年」というタイトルで、実際には戦後の60年を振り返るという内容だった。
それを見ながら思ったのが、この日記のタイトル。

僕はもう随分前から、「この音楽が一番、他はダメ」みたいな考え方ができないようになっていて、クラシックもジャズもその他のポピュラーミュージックも、あるいはワールドミュージックと呼ばれる世界各国の特色ある音楽もまったく等価値でとらえたいと思っている。

だから、この番組のように「100年たって日本にはこんなにクラシック音楽が定着して、新しい才能も生まれました、めでたしめでたし」みたいな話には興味がない。それはジャズについても同じことで、どれだけ日本にジャズという音楽が定着したのかどうか、なんてことにはまったく関心がない。というか、そもそも最近はジャズそのものに興味があまりないし。

正直なところ、いわゆる「西洋クラシック音楽」もいわゆる「モダンジャズ」も、僕に言わせればその歴史的価値が定まっているのと同時に、時代を映す鏡としての「現代性」を失って久しい。それはいわば「過去の音楽」である。従ってその音楽がここ100年どう日本に定着してきたのかなんていうことは、大きな意味での「文化」の歴史とはほとんど関係のない、ごくごく内輪なその業界の歴史、それもマネージメントの歴史があるにすぎない。

音楽の歴史をもっと意味あるものとして振り返ろうとするなら、音楽だけを(どんなジャンルであるかを問わず)取り上げることは不可能である。もっといろいろな他のジャンルとの関わり、文化社会現象との関わりを見なければならない。

そう考えるときに出てくるのが、20世紀が「映像の世紀」であるということ、つまり「映画」「テレビ」といった「映像メディア」が歴史上初めて登場した時代こそ「現代」であり、「現代音楽」とはこの「映像メディア」と切っても切り離せない関係にあるということである。

最近読んだいろんな音楽史の本によると、19世紀より過去に遡ったとき西洋音楽が聴衆ももっとも獲得した形とは「舞台芸術」としての「オペラ」だった。オペラはいわばその時代における最高級のエンターティメントとして、質的にもまた興業的にも最高峰を占める文化の花形だったのである。
しかし、20世紀になり「映画」が登場すると、舞台芸術はその座を「映像メディア」に譲り渡す。英米での「ミュージカル」という形での継承はなされたものの、その伝搬力という点ではミュージカルは映画には決して勝てない。優れたミュージカルは多くの場合映画化されて初めて一般に認知されてきたし、その構造はこれからも当分変わらないだろう。(もちろん、インターネットによる配信が可能になった今、舞台芸術の伝搬力も大幅に強化される可能性はあるが)

だから、僕は「20世紀の音楽」をかたるためのもっとも広くて、妥当性のある切り口はこの「映像メディア」のための音楽なのではないかと思うのである。
西洋クラシック音楽の系譜から「現代音楽」を語ろうとするとき、あまりにも多くの「実験的作品」があり、なにを基準に考えたらいいのかわからないということがある。20世紀の作曲家といっても、それ以前のように人口に膾炙している曲なり作家はあまりにも少ない、というわけだ。
でもそれは、純粋に音楽を音楽としてだけ鑑賞するという19世紀になってはじめて確立された「音楽の鑑賞方法」にこだわるからである。そうではなく、「映画」「テレビ」という映像メディアの中の音楽という観点から見れば、そこには実に多くの「作品」があり、それを作り出す「作家」がいる。流行っているのも決して「歌もの」ばかりではない。印象的なフレーズを持つ純粋な器楽曲はたくさんある。きわめて実験的な楽曲もそこでは採用されている。
ある本でその著者は「現代音楽の歴史を記述することは可能か」という問いを立て、20世紀音楽をかたる上でいわゆる「現代音楽」と日本で呼ばれる音楽だけで語ることは不可能だ、としている。それは「現代音楽」の市場はあまりにも狭く、「聴衆が不在」だからであると。
しかし、そういう「現代音楽」もひとたび映像のための音楽として考えると決してそうはいえなくなる。われわれは実は毎日のようにテレビや映画を通じて「12音技法」にも「ミュージックコンクレート」にも接しているし、それに親しんでもいる。ただ、それらの映像音楽をいわゆる音楽家や音楽評論家たちが「作品」として長らく認めてこなかっただけである。
宮廷音楽というものが大手を振っていた時代はもとより、「市民革命の時代」を生きたベートーベン以後の作曲家たちでさえ、作曲とは誰かの楽しみのためであり、ある種の「バックグラウンドミュージック」=装飾品としての音楽であったにもかかわらず、現代の映像音楽を「作品」として認めないというのはどうみたって公平性を欠いている。
武満徹さんもたくさん映画音楽を書いている。「ゴジラ」で有名な伊福部昭さんは他にもたくさんの映画音楽を遺している。欧米はもちろんである。もちろん、ジャズやその他のポピュラーミュージックも使われているが、これらこそ「現代音楽」であり、時代を映す鏡なのである。

なんか、すごく硬い文章だな。もうすこし噛み砕いていかないといけないかな。