最近どうも | 多弦Gutarist Tominha の部屋

多弦Gutarist Tominha の部屋

10弦・11弦という普通派では見ることがない多弦なギターを弾くギタリストTomonari.Cのブログ。音楽はもちろん、映画やら小説やら政治やら、思いつくままに書き連ねています。

カーっと頭に血が上る出来事が多い。
「菅降ろし」に関連して、その動きの背後に「電力マネー」の存在を報じた記事もその一つ。でも、怒りの理由は記事の内容そのものではなく、もはや菅首相の退陣が秒読み状態の今になってこうした記事が書かれるという、マスコミの現状についてである。退陣は決まっている今ならいえるということなのか、いまだからせめて言っておきたいということなのか、いずれにしてもこういう報道姿勢は、小泉純一郎氏が政権をとって以来繰り広げられている「ワイドショー政治」=政治報道の「芸能レポート並痴呆化」の作り出したものと言う以外ない。
マスコミ界の痴呆化と官僚化の根源である「記者クラブ制度」に異を唱え続けた上杉隆氏が「ジャーナリスト廃業宣言」を出したそうだが、確かにそう言いたくなる気持ちはわかる。本当に今の報道、とくに政治報道のありかたはヒドイものだ。何度かこの日記でもつぶやいたのだけれど、なぜ「菅降ろし」なのか、どうして菅ではだめなのか、それを論理立てて解説した記事というものを未だに読んだことがない。あるのは「みんながだめだといっている」「だれもいうことを聞かないからもうだめだ」という話ばかり。

確かに「だれもいうことを聞かない」のは問題だ。しかし、問題はそれが「なぜなのか」だろう。、ところがそういう報道はほとんどない。大方の報道はたとえてみればこんな感じだ。

「○○さん(解説者の名前)どうして菅さんではだめなんですか」「みなさん、だめだといっているからです。「なぜだめなんですか」「菅さんのいうことをみんな聞かないんですよ」「なぜ聞かないんですか」「みんな菅さんではだめだと思っているからです」「そうですか」

問いの中にもはや答えがあり、答えの中にはそれ以上の内容がなにもない、空疎と言うより「知性そのものが蒸発したような」論議である。いまさら僕がいうことでもなかろうが、「知性というのは疑問を持つことから生じる」。疑問があるから、そこに考えるという行為が始まる。だが、この国も報道はもはやそういう「疑問」を問いかけることそのものを拒否しているのである。

さて、カーッとなるということでいえば、このmixiの「足あと機能の改修」もそうである。
よくぞまあ、こういうことを「改修」とかいって何の相談もなしにできるもんだ。

真剣に今、mixiからの撤退を考えている。

ネットとはいったいなんだ? 
ネットワークの中で何を僕らは求める?
それは通常の生活の中では知り合うことのできない人との出会いではないのか。

それを作り出すのが「足あと」である。、

どこのだれかわからない人が自分の日記を読んだ、プロフィールを閲覧した、そこから交流が始まっていろんなことが広がる。それをもとめているのではないのか、ネットで人は。

「友人」「友人の友人」しか訪問を表示しないということは、ネットがまったく日常生活と同じ広がりしか持てないということである。それは日常生活の範囲で得られた人間関係を「ネット」というバーチャル空間に閉じ込めるもんであって、広げるものでは一切ない。

そんないわずもがなのことをわからないほどにmixiの運営者たちは堕落してしまったのだろうか。

多分そうだろうな。