
「スリランカの料理はおいしかったなあ」と。
スリランカの料理が身体に合った私は、滞在した9日間、ほとんど毎日地元の料理ばかりを食べていた。香辛料が効いたいわゆる「カレー」なのだが、ほんとうにおいしくて、同行した人たちもあきれるほど食べた。決してホテルの食事だけではない。招かれたお宅での食事や街角のスーパーで買ったマンゴジュースも、そして果物もとてもおいしいのである(飲み物は「紅茶」にかぎる。いうまでもないが)。
そのおいしさの理由はなにより「自然さ」にあるのだと、帰国して初めて入ったファミレスで気が付いた。スリランカの食べ物は化学調味料の味がしない。添加物もない。冷凍食品のにおいがしない。魚も肉も野菜もみんな近くで採れた物ばかり。マンゴーやココナッツは家の庭でなっているのを食べるのである。日本では相当に努力しなければならない食の「豊かさ」。その象徴である「無添加」「地産地消」「スローフード」はそのまんまスリランカであじわえる。
また、スリランカの子供たちの輝くような笑顔も思い出す。よく洗濯された真っ白い制服を着てお母さんに手を引かれて登校する子供たちの姿、人懐こくて元気なその姿は子供たちが家庭のみならず社会全体から大切にされていることを強く感じさせた。私たちの社会はスリランカのように子供たちの輝く笑顔をどれほど育めているのだろうか。
一方で、貨幣価値が日本の10~20分の1という事実にあるような「貧しさ」は確かにある。工業製品のほとんどは輸入品――スーパーのレジ袋でさえ中国製である。津波被災者への援助はいいが、本当に援助してほしいのはスリランカの工業化なんだ、という話も聞かされた。貨幣価値に示されるようなグローバルな経済システム上の優劣のおかげで、私たちの持参した義捐金は日本では考えられないようなたくさんの人たちの救済に当てることができる。しかし、そんな日本社会の「豊かさ」は多くのものを失ったすえに作り出されたのだ、ということをスリランカにきて痛感した。
この感覚は沖縄の、とくに離島に行ったときのものに非常に近い。その意味では「ありふれた」感想なのだろう。しかし、それは自分自身にとっては貴重なものだった。スリランカに滞在中、「情けは人のためならず」ということわざをよく思い出した。津波救援は私たちの中にある「豊かさ」をはぐくんでくれたからである。(写真は、スリランカでの私の「朝食の一部」である。インディカ米のご飯にナンをあげたようなもの、それにサラダ。)