#532【まさ89】記憶を伝承に(2024.3.15) | コトバあれこれ

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子ども作文教室、子ども国語教育学会の関係者による
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   元旦に発生した能登半島大地震は、半島を中心に大きな被害をもたらし、未だに多くの人が避難所暮らしを余儀なくされている。13年過ぎた東日本大震災、29年過ぎた阪神・淡路大震災。その惨禍は被災者はもとより我々の記憶にもまだまだ生々しい。一方、関東大震災は昨年で発災から100年経った。地震学者や地質学者によると、同じ場所を襲う巨大地震や巨大津波は100年から2、300年単位の長周期で繰り返すという。日本列島は地震活動が活発なところだけに、全国各地で地震は頻繁に起こっている。耐震工法の徹底で巨大地震の被害はかなり防げるが、大津波に関して言えばそう簡単ではない。「津波てんでんこ」と言われるように、とにかく津波が来ない高台や山まで逃げるしかない。また、どこまで逃げたらよいのかなど、被災したときの記憶が何代も後の人々まで伝承される必要がある。新明解国語辞典によると、「記憶」は過去に体験したことや覚えたことを忘れずに心に留めておくこと。「伝承」とは、ある集団の中で古くからあるしきたり・信仰・風習・言い伝えなどを受け継いで後世に伝えていくこと。記憶は個人が主体なのに対し、伝承はその地域に住む人々に伝えられていく記憶である。

薄れる個人の記憶をどう伝承するか

 作家の故吉村昭の『三陸海岸大津波』(1970年刊)によると、1896(明治29)年6月の明治三陸津波を経験した古老も、1933(昭和8年)3月の昭和三陸津波は「冬期と晴天の日には津波が来ない」という言い伝えがあったことから、油断してすぐ逃げなかったという。

 一家全滅という甚大な被害を受けた大津波でも、時間が経てば、個人の記憶は薄れていく。ましてやそれが1世紀や2世紀にもなると、記憶はほとんど残ってはいない。しかし、確実に大津波が再来するとなると、どうすればよいか。個々人の記憶が地域に住む住民に伝承されていけば、大津波などの被害は最小限に抑えられるのではないか。紙をはじめさまざまなメディアによる記録、被災者などが語り伝えることは大事だが、超長期になると限界がある。

「津波石」が語ること

 「総合コミュニケーション科学」という、コミュニケーションについての新しい考え方がある。コミュニケーションは人と人との間のやりとりと考えることが多いだろう。そうした枠にとらわれず、人は植物、動物、自然、人工物(ここでは人間社会などの組織も人工物と考える)ともそれぞれコミュニケーションしていると考える。この考え方に沿って、記憶と伝承の問題を考えていけばどうだろうか。

 巨大津波について「モノ」に語らせることはできないだろうか。例えば、岩手県大船渡市吉浜に「津波石」という巨石がある。昭和三陸津波で運ばれた巨石で、重さは32トン以上もある。道路工事などで法面に埋もれていたが、東日本大震災の大津波でその一部が顔を出し、津波記念石と認定された。津波によって運ばれてきた海底の砂礫が地層になるのもそこまで津波が到達した証拠だが、津波石の迫力には勝てない。

 

(岩手県大船渡市吉浜の「津波石」)

慰霊碑や記念碑も伝承の道具

 慰霊のために各地に建てられた慰霊碑や祈念碑の類も津波について語っている。国土地理院が作成、インターネット上で公開している自然災害伝承碑マップは、洪水、土砂災害、高潮、地震、津波、火山災害について、全国598市区町村の2085基(2024年2月29日現在)を紹介している。東北3県の津波石碑は約300基。そのうち碑文が刻印されているものは198基あり、うち61%は津波の予兆、避難、居住場所に関する教訓が刻印されているという。岩手県宮古市の重茂姉吉(おもえ・あねよし)地区にある明治三陸津波と昭和三陸津波の「大津浪記念碑」は「ここより下には家を建てるな」との戒めが記載されている。地区に住む住民はその戒めを守り、家を建てなかったため、東日本大震災の津波はこの石碑の手前50mまで押し寄せたが。一軒の被害も出なかった。

 ただ、石碑の教訓が守られるとは限らない。過疎化が進むにつれて石碑自体が忘れられた存在になっていく。また、大津波が襲来したという噂が広がれば、土地の売買価格にも影響する。宮城県名取市閖上地区は昭和三陸津波で8mほどの津波に襲われた。このことは石碑に刻印されたが、忘れ去られてしまい、東日本大震災では津波による被害者が多数出た。

 (岩手県宮古市重茂姉吉地区にある「大津浪記念碑」)  

地域の住民で慰霊碑に毎年墨入れ

 石碑も建てただけでは超長期ではやはり忘れ去られていく。伝承するためにはそれなりの工夫が必要だ。大阪市浪速区の大正橋の袂にある慰霊碑は超長期でも津波のことを地域住民が忘れない仕組みとなっている。地元の住民が子どもから高齢者まで毎年決まった日に慰霊碑に墨入れをしている。1854年、安政南海地震で発生した大津波は淀川を遡り、今のJ R難波駅まで達し、甚大な被害を及ぼした。翌年、大正橋のそばに慰霊碑が建てられた。この地域では1707年の宝永地震の大津波でも多数の人が亡くなっている。その後、地域の人々が毎年供養の日に石碑の一文字一文字に墨を入れている。碑文には「願くハ 心あらん人 年々文字読みヤスキやう 墨を入れ給ふへし」とある。墨入れで文字をたどることにより、災害の記憶と教訓が呼び起こされるわけだ。

 

震災遺構は維持管理が大変

 東日本大震災では、宮城、岩手などで小学校や役場などの庁舎を「震災遺構」として保存している。遺構は大津波の恐ろしさをリアルに理解できるだけに効果的だが、超長期にわたって保存していくことは可能なのだろうか。時間の経過とともに、遺構の維持管理が大変になるのは目に見えている。映像化するのも手だが、リアルさにどうしても欠けるだろう。

 桜の木に大津波の記憶を残そうという試みが岩手県陸前高田市で始まっている。津波が到達した地点沿いに桜が植えられている。この桜の木より上に逃げて、と避難の目安を示すのが狙いだ。N P O法人「桜ライン311」(陸前高田市)が始めた植樹活動で。この十三年間に延べ2500人のボランティアが協力した。2011年11月に沿岸から約1.5Km離れた浄土寺の境内に最初の1本の河津桜が植えられ、これまでに2213本が植樹された。目標は1万7000本だ。

 

長期の伝承は「祇園祭」を手本に

 阪神大震災や東日本大震災では震災後に生まれた若者たちが「語り部」となって震災や大津波の記憶を伝えていく動きも出てきた。彼らがその次の世代に語り部を引き継ぐことができれば、伝承となっていくだろう。究極の伝承はある意味で「お祭」化することではないだろうか。日本三大祭の一つと言われる京都の祇園祭は、869年(貞観11年)に京で流行した疫病を鎮めるために始まった。国の平安と疫病退散を祈願して、八坂神社(当時は祇園社と呼ばれていた)で牛頭大王を祀り、神輿を神泉苑に送る祭りが行われた。その後も疫病退散の祭りとして毎年恒例の行事として行われるようになり、今に至っている。こう考えれば、地震や災害で亡くなった多くの人を慰霊するとともに、巨大災害を伝承するには「祭り」はふさわしいイベントかもしれない。