様々な視点から、子どもと作文と言葉について思考するこのブログ。
私 は「子どもから教わったこと」というテーマで綴ってみようと思います。
子どもに作文を「教える」立場の私ですが、実際は子どもから「教わる」ことのほうが多いくらいかもしれません。
流行りのマンガやゲームといった一見他愛もない話でも、ストーリーの見事な要約ぶりから、「だったら次はこんな課題をしてみよう」と授業のヒントをもらったり、世界的な古典文学にルールがあることを知らされて、何千年も前に生まれた物語の「生命力」の強さに心打たれたり。
子どもの言葉で、こちらの凝り固まった価値観や先入観をあっさり打ち砕かれることもしばしばです。
今日はそうした「子どもから教わった」出来事のなかの、最も古い記憶のひとつをご紹介します。
空気が澄んだ冬の午後、言葉を覚えるのがおもしろくなり始めた時期の子どもと公園にいたときのことです。
「もの」にはそれぞれに「名前」がある。その当たり前でいて実は深い事実に目覚めた子どもは、知らないものを見ると指をさしては、「あれは(何)?」と訊いてきます。その日、指さしたのは、頭上の青空でした。
あれ? 「空」はもう知ってるはず・・・というこちらの気配を察したのか、もう一度しっかりと、上空の一点を示します。しゃがんで目線を合わせ、指先を仰ぐと、木々の枝で囲まれた青いキャンバスに、透き通るように白い月が浮かんでいました。
私は、「月=夜のもの」と思い込んでいました。子どもがその言葉を覚えるのは、夜か、本のなかでと勝手にイメージしていました。でも月は、昼でも夜でもそこに在ります。子どものまっさらな心と頭が、さらりと教えてくれました。
作文の授業で、「当たり前に使っている言葉を説明する」という課題に取り組むことがあります。
論理的な思考の根幹を支えるのは「言葉」です。自分が思い描くものを(できるだけそっくり)他者に伝えるには、無数の言葉のなかから、「これ」というものを選び出せなくてはなりません。ひとりよがりな解釈や、思い込みに頼った言葉遣いを手放して、より多くの人に理解される言葉を用いたとき、思考を他者と共有できます。そのために用意された、思考力や柔軟性が試される課題です。
たとえば、「手」。
ある生徒は、「人体のパーツ(!)のひとつで、物を触ったり掴んだりするためのもの」と説明しました。
それを聞いたまわりの生徒たちから、
「人体だけ? 猿だって『手』って言わない?」
「犬は言わないね〜」
「でも『お手』って芸を仕込むじゃん」
「どこが違うんだろ」
様々な声が飛び交います。
お互いの声に触れることで、発想をどんどん広げていく子どもたち。ひとりひとりが頭をひねって紡ぎ出した「答え」には、もちろん、ひとつとして同じものはありませんでした。
さて、「月」。
以前の私であれば、「夜空」は「月」を説明するための欠かせない要素でした。
でも、今は違います。せっかく子どもから教わったのですから。
「月」を知らない人に、「月」を説明するとしたら。
みなさんはどう説明しますか?
S+Y