むかしむかし、武蔵の小さな村に、与之助という少年がおりました。
与之助がまだ三つの頃のこと。川で遊んでいて足を滑らせ、流れに飲まれそうになったとき、一匹の若い里犬が飛び込んで、必死に与之助の着物の裾をくわえて岸へ引き上げてくれたのでした。その犬は、村はずれの野良だったのですが、以来、与之助の命の恩人として家に迎え入れられ、「クロ」と名付けられて可愛がられるようになったのです。
それから十三年。十六になった与之助は、江戸の呉服屋へ奉公に出され、里を離れて四年が経っておりました。
元禄の頃、正月十六日。年に一度の「薮入り」の日、与之助はようやく実家へ帰る道を急ぎました。冬の冷たい風が頬を刺しますが、心は温かく、ただただクロの顔が見たくてなりません。
里の入り口、雪混じりの小道に差し掛かったとき、遠くからかすかな足音が聞こえました。
ゆっくり、ゆっくりと、一匹の老いた里犬が近づいてくるではありませんか。かつての黒々とした毛は白く混じり、歩みはよたよたと、目は霞んでいるようでした。
「クロ……? おまえ、クロなのか……」
与之助が声をかけると、老犬は一瞬立ち止まり、鼻をクンクンと動かしました。そして、まるで雷に打たれたように、尻尾を小さく振り始め、
「わん……わんっ! わんわんっ!!」
今にも倒れそうな体で、必死に駆け寄ってきたのです。
普段はもうほとんど吠えることもなく、縁側で静かに日向ぼっこをしているだけの老犬が、このときばかりは若かりし頃のように、之助の胸に飛びつき、顔を舐め、鼻を押しつけ、くぅーんくぅーんと甘えた声を上げて離れません。
与之助は道端に膝をつき、震える手でクロの首を抱きしめました。
「クロ……待っててくれたんだな。こんなに年老いても、俺のこと覚えててくれたんだな……」
涙がぽろぽろと、クロの白くなった毛に落ちました。クロはただ、之助の頬を何度も舐め、まるで「ようやく帰ってきたな」と語りかけるように、静かに目を細めました。
家に着くと、家族は大喜び。母は涙を拭き、父は肩を叩き、弟たちは「クロがさっきから急に外へ出たがってたんだよ」と口々に言いました。
クロはそれから三日間、之助のそばを一時も離れず、足元にぴたりと寄り添い、夜は枕元で丸くなって寝ました。昔のように元気に跳ねることはできませんでしたが、その瞳は穏やかで、満ち足りた光を湛えていたのです。
三日目の朝、別れのときが来ました。
与之助は門の前でしゃがみ、クロの頭をそっと撫でました。
「また来年な、クロ。来年も、もっと立派になって帰ってくるから……」
クロは小さく「くぅん」と鳴き、之助の手を鼻でつつきました。そして、之助が草鞋を履き直し、江戸への道を歩き出すのを、門のところでじっと見送りました。
家族が見守る中、老犬は静かに座ったまま、之助の後ろ姿が小さくなるまで、目を離しませんでした。
そして、之助の姿が完全に視界から消えたその瞬間、クロはゆっくりと体を横たえ、静かに目を閉じたのでした。長い長い付き合いを終え、最期の務めを果たしたかのように、穏やかな表情で息を引き取ったのです。
村の人々は、あとになってこう語り継ぎました。
「あの正月十六日、クロは十三年前に助けた命、最後の力を振り絞って、見届けて、そして満足して旅立ったのだと」
忠義を貫いた老犬の物語は、今も静かに、村の冬の夜に囁かれるのでした。
めでたし……とは言えぬけれど、心に残る、切なくも美しい昔話でございました。
