太田城水攻めのパンフレットより | ロンママの笑うが勝ちや

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太田城水攻めと大規模弥生集落のパンフレットより探索してきました
いつも車で走っていたり、用事があって通ったりする所ですが知りませんでした

太田城について看板より

太田城跡
ここ来迎寺は、岡山県高松城、埼玉県忍域とともに日本三大水攻めのひとつに数えられる戦国時代の太田域の本丸跡と伝えられる場所である

域の範囲は、現在の来迎寺、玄通寺を中心に東西二百五十メール、南北二百メートルで周囲に深い堀をめぐらし、東に大門をもっていたとされる。
天正十三(一五八五)年、豊臣秀吉の紀州攻めに際し、太田党は太国左近宗正を大将として、約五千人が太田域に立てこもり、十万余人の秀古軍に対して強く抵抗したため、秀吉軍は域を取り囲む総延長五~六キロXートルにも及ぶ提を築き、水攻めをおこなった。攻防一ケ月、ついに左近ら中心人物五十余人の首を差し出すことを条件に他の者が助命されたとれる。
ここから北東約五十メートルには、戦いにより亡くなった者を葬った小山塚、北東約二百五十メートルには太田城の大門があった場所とされる大門橋、北東約七百メートルには水攻めの際に秀吉軍が築いた握跡が残っている。なお、西約!キロメートルの市内橋向丁の大立寺の山門(和敵山市指定文化財)は、この太田域の大門を移したものと言われている。

左下の祠は民家と民家の間にありました
太田城毘沙門天
嵯峨天皇の御代(千百五十余年前) 弘法大使諸国行脚の際、本像の
「昆沙門天は東方の音浦山(現在の花山) から出現せられ、当所から
西南的七OO米にある総光寺に安置された。

永保二年六月末 (九百八年前)未曾有の大旱魃あり、この尊像に兩乞いの祈願をなしたらるに、忽ち霊応現われ、大雨を降らしめて住民は慈雨に潤うた。また、こ の旨を朝廷に奉上せしところ、畏くも勅命により、同寺院の七堂伽蓝が建支された。
然るところ、天正六年五月(約四百十数年前) 蕹賀一揆 の戦火に罹り七堂伽蓝はことご とく灰燼に帰した。
この際、本尊たる当「昆沙門天」は太田城中に逃れて守護神 となり、爾来諸民祟敬の的となっている
「総光寺縁起史には「尊天に不思議なるかな、火中より太田村竹薮に飛び去り玉ふ、今において毘沙門屋舗是なり」と記されていら。
なお、境内にある石燈籠には、享保十五年十一月奉献と刻名されている

天地(あめつち)のつづかん限りおわしまし
毘沙門天は民を守らん


アパートの奥に太田城水攻め堤がありました

天正13(1585)年におこなわれた秀吉の太田城水攻めの際に築かれた堤防で、周囲を標高2~3mの平野に取り囲まれており、あたかも海に浮かぶ小島のような景観となっている。
現在は出水にのみ水攻め堤の残存部分が残っている。
出水堤の測量調査がおこなわれており、基底部の幅31メートル、長さ45.0m、高さ5.0mを測る大規模なものであったことが判明している
頂上は標高7.1mを測り、周辺で最も標高が高い場所で太田城からは約500m離れている。



それにしても秀吉ってすごいな