「失われた道徳」さくら保育園、園児虐待/マスコミの人権主義=反日/江原啓之さんへ/出師の表 | 高澤 一成 「真の哲学者とは」

高澤 一成 「真の哲学者とは」

■哲学・社会学・社会思想に基づく「社会衰退の克服論」
■成人道徳教育(啓蒙)の必要性と、道徳と自由の両立

 

12月8日 「失われた道徳」さくら保育園、園児虐待/マスコミの人権主義は反日/江原啓之さんへ/出師の表

 

 

 

 

■「失われた道徳」さくら保育園、園児虐待

(2022年12月5日 「ひるおび TBS NEWS」)

 

 9月に園児の放置死が問題となった静岡県の保育園で、事もあろうに、かわいらしい3人の30代保育士による心無い虐待が起きた。

 保育園とは英語で保育"nursery" school だから、そこで虐待"abuse"が行われたのだからあべこべだ。

 

 彼女たちが起こした入園児に対する問題行動は、子どもたちの心にトラウマを残すものであり、また、彼女たち自身も、保育園か幼稚園に通園していたころの記憶はあるだろうから、「相手の立場に立って物を考えることができない」という、※J.S.ミルやハイデガーの言う「配慮」(哲学上は「顧慮」)のなさ、つまりは理性的な道徳、想像力の欠如と言うほかない。

 

 ただ、私はツイッターでの人気ユーチューバー令和タケちゃんによる彼女たち三人への攻撃を危惧している。

 彼のやっていることは、正直左派マスコミや左派論客がやっているのと同じ個人糾弾(きゅうだん)であり、ネット上で新たな憎悪を生んでいるが、彼女たちも罪を償(つぐな)い、賠償をした後で更生する可能性があるのであって、年齢から考えれば出産して母にもなる立場であり、もしくはもうすでに既婚でお子さんもいるのかもしれない。

 もし、彼女たち三人の誰かが自殺したら、令和タケちゃんは責任を取れるのだろうか?

 

 私個人は、この三人の女性にはまだ未来があって、道徳教育による更生の可能性があると信じている。

 また、日本が極端な超高齢化社会で、かつ超少子化社会であり、出産適齢期の女性が少なく、また保育士の人材も不足しているという日本の事情もあり、彼女たちのような若い世代の女性は正直、「日本の宝」でしかない。

 

 その「日本の宝」を率先して犯罪者にして、ニュースにして「飯の種」にしているのが、韓国・中国寄りで、全共闘世代が上層部にいる「オール左翼」の、戦後70年、一貫して国民から道徳を排除してきた日本の大マスコミなのである

 

 そして、彼女たちは倒錯した、無知・無哲学・無思想な左派マスコミの言論封鎖と世論操作とによって、人として必要な道徳教育を全くされておらず、大半の日本人と同様に確固とした行動規範がないのである。

 

 私は道徳が全くなかった20代までの私自身と、哲学や社会学、宗教倫理の様々な道徳倫理を学んだ今の自分とを比較して、道徳倫理を知らない人たちと違って、客観的に物を言うことができるが、保育士のような道徳倫理が必要とされる職に就いて、子どもの面倒を看ることは、たとえるなら、物理の教育を受けていないのに、いきなり物理の問題で正解するようなものである。

 むしろ、それよりも難しく、道徳倫理を学ぶということは、多くの未熟な社会の構成員の中に内在する他者配慮の欠如や他者への依存など、今まで自己本位的に生きてきた自分自身の人生の価値観の転換や、発想の転換を迫られるのである。


 しかし、現に高校の社会科にも倫理科があるにも関わらず、朝日新聞を始めとする左派マスコミや田原総一朗にとっては、道徳倫理とは「完全になきもの」なのである。現に小学から中学の道徳科は今でもそれ自体、全く普遍的な道徳ではないのである。

 そして、たまたま哲学に関心があった私みたいに道徳や倫理の素養もなく、かつ、この三人の保育士みたいに、全く教えられてもいないのに、オリンピックの競技である体操の床運動の宙返りわざをいきなりできることの方が珍しいのである。

 それでも日本人の大半は宗教倫理がなくとも、頭のキレるひろゆきやホリエモンを信じたり、テレビの言うことや特殊詐欺に簡単にだまされてしまうくらい善良で純粋であるので、事なきを得ているに過ぎないのである。

 

 また昔は社会によってよく「しつけ」られた、模範となる大人がたくさんいて、諸先輩の背中を見ていればよかったが、今は虐待を容認したり、隠ぺいしようとした、小手先のことしか考えられない裾野市のさくら保育園の園長のように、完全に道徳のない、思慮分別すらない大人しか周りにいないのでは全くお話にならないのである。

 

 私が言いたいのは、当然彼女たちは罪を償って、賠償をするべきだが、J.S.ミルの言う「社会の未熟な構成員である」ことも確かであり、令和タケちゃんのように即刻社会から抹消登録するのではなく、偽善的で反日である左派マスコミの呪いの壁を打ち破って、普遍的な道徳を教育していかなければならないのである。

 

 また、こうした保育園の虐待は、保育園に限らず、老人福祉施設や障害者施設でも頻繁に起きており、つまり今の日本は社会学的に言って、道徳崩壊の混沌状態「アノミー」にあり、宮台真司いわく「ヘンな人が増えた」という「成熟社会」なのである。

 

 そして私もそれこそ20年前から口が酸っぱくなるくらい言い続けてきたが、戦後70年にわたって、社会に絶大な影響力のあるマスコミが道徳を否定したり、排除してきた日本社会全体の問題なのである

 

「もし道徳的環境が腐敗していれば、教師自身もそのなかに生きているのであるから、かれらにもそれが浸透しないわけにはいかない。…社会じたいが改革されないかぎり、教育の改革も行われないのである。」(デュルケイム 著 宮島喬 訳「自殺論」中央公論新社)
 

 私はツイッターではからっきし誰からも相手にされず、北野武さんが「バカの拡声器」と呼ぶSNS上では全く影響力がないが、大インフルエンサーである令和タケちゃんや匿名の人たちなどの攻撃によって木村花さんのように孤立しているなら、決して自殺など考えず、ぜひ私を頼ってほしい。なぜなら、裾野市以外の、富山県など、全国でも保育園の虐待が起きている以上、私個人はマスコミを中心とした社会の責任も同様に大きいと信じるためである。

 

※「ある個人の行為が、…他人の幸福に対する当然な配慮を欠いている、という場合はありうる。」(J.S.ミル著 塩尻・木村 訳 「自由論」)

 

※「顧慮は他人からいわば[心配]を取り除いてやることができ、配慮をすることにおいてかれに代わってやり、かれのために[尽力してやる]こともできます。
[人間に対する]こうした顧慮は、[事物に対する]配慮を要すべきゆえんのものを他人のために、引きうけてやることです。」(ハイデガー 著 桑木務 訳「存在と時間」 岩波書店)

 

 

 

 

■12月10日追記 朝日新聞にだまされないで。

「イライラ、余裕がない」と「悪意ある虐待」は全く別の話です。

 

(2022年12月10日 朝日新聞)

 

 人権主義を推進する左派マスコミの朝日新聞がまた、やんわりとしたダウトの記事を書いて、悪意を以て道徳の必要性を隠すために、国民をあざむこうとしているが、人手が足りず、忙しすぎて感情が表に出てしまったり、至らない部分がある保育士の状況と、心の闇があって、意図的に悪意を以て虐待をする行為とは、完全に「別次元の話」だ
 そもそも人間はロボットではなく、感情の動物であり、感情があって当たり前だ。

 

 端的に言えば、道徳とは、その人の身分や性質ではなく、その人の意志の方向性である。

 私は裾野市の保育園 の保育士のように、最初から頭で決めた「虐待」という悪意に向かっているのか、そうではないのかという、その「善意か?悪意か?」の方向性の問題を話している。

 

 そして「虐待をしよう」という悪意、道徳の欠如を問題としているのだ。

 

 したがって、すべての保育士に当てはまるような、忙しくて手が回らないとか、そういうことは虐待とは全く関係ないのだ。

 この記事で取り上げられているような一般の保育士には、当たり前だが、明確な悪意や、計画的な虐待の意志はない

 つまり道徳的に言って、「問題はない」のである。

 

 しかし朝日新聞は多忙な保育士の境遇を利用して、すべての社会問題の元凶である「悪意」を制限する道徳<社会性>の必要性を意図的に隠そうとしている。

 そして、悪意を以て虐待に発展してしまう道徳の欠如の問題だけが重要なのだ。 

 たとえば、終戦直後に団塊世代の多くの子どもたちを育てた母親はヒマだっただろうか? 心理的な余裕があっただろうか? 

 もちろん、当時の母親たちは今の保育士よりもはるかに忙しかったが、一切虐待がなく、今日団塊世代が多くいるのは、当時の母親たちには道徳があって、つまり純粋に、虐待をするという悪意がなかったのだ。

 

 そもそも虐待をする保育士は「余裕もあって、忙しくない」。

 なぜなら、一人の子を、これらの容疑者のように、じっくり虐待する時間があって、虐待の方法を考える余裕もあるのだから。

 

 しかし、それらをいっしょくたにしてだまそうとしている、人権主義イデオロギーによって道徳を排除しようとする無知、無思想、無哲学の、ヘーゲルの言う下賤な左派マスコミの存在自体が、児童虐待や園児虐待といった痛ましい事案を引き起こしているのであり、西部邁(にしべ すすむ)の言うように、道徳を破壊して人権主義を進める大マスコミこそがこの国の問題の本質なのである。

 

 

 

こちらの12月10日追記分を元にした提言を、厚労省宛てに送信しました。

 

 

[日本哲学会・哲学者で道徳本(幻冬舎MC)の著者の高澤一成です。保育園の園児虐待で、全国調査するということですが、西部 邁(すすむ)が言うように、他の虐待と同様、戦後マスコミが否定・排除してきた「道徳」の問題です。そしてこれら社会問題の元凶は「国民ではなく」、選挙で選ぶことのできない「大マスコミ」にあります。たとえば朝日新聞は今日の紙面で、道徳の必要性を隠すために、「イライラ、余裕がない」という多忙な保育士の境遇を、飛躍して「故意による虐待」と結びつけますが、今、広く問題視されているような「人手不足で余裕がないこと」と、「悪意を以て虐待すること」とは全く関係がないのです(そもそも本当に多忙な保育士は虐待する方法を考える余裕も、一人の子を虐待する時間もないのです)。それは終戦直後に多くの団塊世代を育てた親が、虐待をしなかったことを見ても明らかです。そして人はロボットではなく、時に感情的になることは当たり前であり、それは計画性を以て為される悪意ある虐待とは完全に別の次元の話なのです。そこで、2000年以降、道徳の必要性を広める活動を続けて、日本一の道徳の専門家を自負する私が要望したいのは、道徳とはその人の身分や性質ではなく、わかりやすく言えば、善意に向かっているか、悪意に向かっているかのその人の方向性であり、ベクトルです。人であれば誰でもイライラしたり、感情的になりますが、善意に向かっていれば、虐待は100%起こりえません。そして「悪意を制限すること(ex. ヘーゲル)」こそが高校の倫理科で習うような哲学の道徳の主旨なのです。無論、宗教倫理のある他の先進国では何の問題もない話です。そして、できれば、保育士も「士業」であり、公職者ですので、善意に向かうことを教育しなければならず、逆に言えば、この国から徹底的に道徳を排除して、社会衰退を深刻化させた左派マスコミの20年来の妨害がなければ、それは容易だったのです。
そして自民党・岸田政権の時代に、この国の病巣を根本的になくして、内側から日本を復活させたいのであれば、無知、無哲学で政治的な大マスコミの国民だましで社会問題を深刻化させるだけの論調ではなく、人としての最低限の、理性的で、教えることのできる、普遍的な道徳の必要性を教育するために(中略) です。そして児童虐待や園児放置死、障害者施設や老人福祉施設の虐待など、マスコミの妨害を克服して、それ以外の問題も同時に解決しなければなりません。そして幸い今の時代は瞬間的に多くのことを伝達できる時代です。なにとぞご検討のほどよろしくお願いします。]



 

 

 

 

(2022年12月7日 朝日新聞)

 

 

 依然、朝日新聞は社説でも、道徳の必要性には一切目を向けず、「保育園独自の問題」という前提で話を進めて、管理者の問題、制度の問題などとうそぶいているが、このような施設側による虐待は、保育園に限らず、老人福祉施設や障害者施設でも頻繁に起きており、問題の原因は誰がどう見ても、「道徳を教育されていない人間、あるいは道徳のない人間が、弱い立場の人間を虐待している」というだけの話である。

 

 それを社会全体が、「道徳全否定で腹に一物(いちもつ)のある朝日新聞と右へならえ」で、道徳の必要性には一切目を向けず、根本的な原因を一切無視して、全く関係ない方向性で対策を取ろうとしているから、このような問題が悪化したり、増えこそすれ、一向に改善されたり、なくなっていかないのである。

 

 

 

(2022年12月5日 朝日新聞)

 

 そして朝日新聞は事もあろうに天声人語で「子どもの人格、人権を軽んじてはならない」とうそぶいて、読者に対して「社会性」としての道徳を破壊する側の人権主義の必要性を唱えている始末なのである。

 だが、周知のように、幼児や子どもは、女性や同性愛者のようには人権を主張してデモをするというような社会活動をすることができないため、人権主義で守られている家庭の中までは入ることができず、道徳が教育されていない社会の構成員による密室の中での、児童虐待や園児虐待、園児放置死が後を絶たないのである。

 

 また、そもそも「人権」という概念とは、それを制限する国家に向かって言わなければならないのであって、政治家でもなく、自分たちと対等である同じ社会の構成員、一般国民に対して言うこと自体がおかしいのであり、もし彼女たちに言うとするならば、「道徳の必要性」であり、他者の人権を制限するいかなる法的な権限もなくて、哲学や社会学における「社会性」である道徳を教育されていないこれら30代の保育士という一社会の構成員に向かってそれを言うのは、完全に筋違いであり、これを書いた朝日新聞の人は完全に矛盾しているのである。

 

 つまり令和の今の日本の左翼には存在価値が全くなく、むしろ道徳を否定して排除する分、社会にとって完全に邪魔な存在なのであり、それでいて彼らが絶対的な影響力がある以上は、こうした深刻な社会問題の元凶そのものなのである。 

 

 

 

■「大マスコミの人権主義=反日」

「人権主義」という名の暴力

 

(2022年12月7日 朝日新聞)

 

 日本の人権主義は、それがメディア権力から発せられている以上は、残念ながら、「日本を無きものにしよう」とする反日イデオロギーと一体化していて、不可分の関係にある。

 

 周知のように人権は重要なものだし、中国やロシアにおいては、人権は強く主張されるべきである。

 だが、日本の大マスコミは、自分たちが逮捕される危険のある中国やロシア、あるいは明確に女性が差別されている中東では一切それを言わず、憲法で明確に人権や男女平等が保障されている、安全な日本だけでそれを言って、道徳を否定し排除して、社会秩序を破壊しつつ、「女性の側から一方的に男性をレイプ罪に問える」などの極端なジェンダー平等を推し進めて、社会を分裂、対立させて、日本社会を解体しようとしている。

 

 そして大マスコミがそれこそ今の統一教会叩きのように、一斉に示し合わせたように社会から道徳を排除することで、道徳の必要性を知らない若い保育士たちの人生を台無しにして、児童虐待や園児虐待を増やしつつ、天声人語で「人権」の必要性を言って、その返す刀で「人権」をテコに、「日本人が朝鮮人を大量虐殺した」という自虐史観の政治的な「反日」をやる日本の反日マスコミを根絶する以外はない

 

 この日の(12月7日の)朝日新聞を見てもわかるように、「日本の大マスコミの人権主義=反日」なのである。

 

 確かに、こうした歴史的な事実の検証は歴史家によってなされなければならないが、それを言うなら、中国で日本の民間人が大量虐殺された通州事件や、韓国で韓国人が大量虐殺された保導連盟事件も同じように検証されなければならないが、それらの事件に対しては一切取り上げず、戦後一貫して、日本人が反日、自虐史観になるだけのような特集、情報操作、世論操作に終始しているのである。

 

 今の日本を席巻(せっけん)するのは、彼らが全否定する「道徳」をベースにした海外のSDGsに便乗した池上彰氏のようなテレビ・インフルエンサーの「反日ビジネス」であり、この特集の人たちは朝日新聞が推進する「反日」の政治イデオロギーに便乗して、自虐史観を何をエラそうに※滔々(とうとう)と語っているのか?

※延々と話し続けること

「自由いいでしょ?」 「人権いいでしょ?」

 甘い言葉で日本の左翼メディアは、戦後70年間、善良で純粋な日本国民をだまし続けてきた。

 しかし大マスコミにだまされて、「日本国」という国家がなくなって、彼らがシンパシーを覚える中国に編入されてしまえば、自由も人権もなくなるのである。

「日本国」があって、初めて我々の自由も人権も保障されるのである。
 

 香港を見てもまだそれに気づかず、延々とSDGsを利用して、教育現場やテレビを乗っ取って、スクールジャック、メディアジャックして、左翼イデオロギーを日本国民に洗脳、浸透させ続けようとする

 

 「人権主義」という暴力によって、児童虐待と反日とを同時に進めようとしているのが、日本の反日マスコミの正体なのである

 

 

 

 

■女性の意見など最初からさらさら聞く気のない「偽善ジェンダー」の反日メディア権力について

(2022年12月2日 「ひるおび TBS NEWS」)

 

 杉田水脈政務官に対するバッシングが激しさを増しているが、それは取りも直さず、彼ら左翼が最も指弾しているような、「女性の内心に踏み込む行為」である。

 杉田水脈さんは、確かに美輪さんの言われるように傲慢な部分があるかもしれないが、テレビやマスコミと違い、民主主義で選ばれており、法的に明確に日本の女性を代弁している。

 もし杉田水脈を叩くのであれば、同じように言動に問題のある左派の国会議員である石垣のり子やかつての山尾志桜里、塩村文夏も同じように叩かなければならないが、大マスコミにおいては、それは一切なされていない。

 

 つまり日本の大マスコミは、日本の女性の政治家のほとんどが、政治よりも人権や生活に密着した政策を主眼としたリベラル寄りで、かつジェンダーイデオロギーに理解があるため、左翼持ち前の「男女共同参画」で、外国の意志か何か知らんが、不条理に「女性と男性の政治家の数をそろえれば、日本を解体できると踏んでいる」のだが、「女性のクセに右とは何事だー」と怒り狂って、こうした保守の女性政治家に対して執拗にメディアスクラムを浴びせて、テレビで印象を悪くして、外国資本の入ったテレビ民放が、彼女に投票させないように仕向けているのである。

 

 杉田水脈さんには道徳が欠けていた部分や至らない部分もあるかもしれないが、「日本にはイスラム圏のような明確な差別は存在しない」とする意見や、そうした女性の内心や多様性を一切認めない態度は、彼らに最初から女性に対する慮(おもんぱか)りがないことの証左である。

 

 つまり彼ら大マスコミや福島瑞穂ら左派政治家は、道徳を言論封鎖し、かつ、女性の内心もこのようにして弾圧しているのである。

 

 杉田水脈を擁護できる人が自民党にもいないが、そもそも日本社会から道徳がなくなってしまったから、自殺やDVなど、福島瑞穂が杉田水脈に対して言ったような重大な社会問題が起きているのである。

 そもそも道徳を破壊して日本の社会秩序を破壊して、社会問題を引き起こしているのは彼ら反日左翼なのである。


 

 

 

 

■江原さんへの提言/出師の表

 

 出師(すいし)の表とは、臣下が出陣する際に君主に奉る文書であり、君主とは当然天皇である。

 伯父が毛沢東に会い、2年前に他界した父も伯父以上に熱心な共産主義者だったという父方の左のルーツは公言できても、(中略)ルーツは一切公言できないが、今の私の思いは、江原啓之さんが、著書で明治天皇の道徳的な精神性を称える気持ちによく似ている。

「いかならむ 時にあふとも 人はみな まことの道を ふめとをしへよ

(たとえどんな場合であっても、人はみんな誠の道、正しき道を歩みなさい)」

 (明治天皇の御製(ぎょせい)  江原啓之著 「言霊のゆくえ」徳間書店)


 日本の皇室とは代々誇り高く、気品高い道徳的なものだ。
 

(事実上、道徳を全く知らない20代の私に下賜された、1981年発行の、高校の倫理科の参考書「精説 倫理・社会」(数研出版)によるものだが)、

今の私もそれによってこのようにある。

 明治天皇と面識のない江原さんですら、本一冊を明治天皇の道徳的な精神性の礼賛に費やしているのだから、一切口外できないが、人生の若い時代に、皇室の血統を(中略) 一俗人に過ぎない私にとっては、その浮世離れした道徳性と気高さ、表裏のなさに、心が洗われる思いである。

 上皇さまの初孫となった眞子さまの数奇な境遇を見ても、ここでは一切書けないが、いろんな思いがある。

 今の私は経済や国防、食の安全などの政策から、参政党を支持するが、彼らでは児童虐待などの社会衰退や少子化を止めることはできないため、私は参政党には入らず、一人、「日本道徳党」の発足を目指して、参政党に投票し、精一杯応援して彼らを支えていきたい。

 テレビもネットも新自由主義に人権主義ばかりで、日本国民にとっては完全に敵ばかりであり、前途多難すぎるが、まずは参政党のますますのご発展とご活躍を心より願う。
 

 とは言っても、私が江原啓之さんに会える可能性は皆無だが、今般(こんぱん)の児童虐待、園児放置死、園児虐待という日本の窮状と、一私人に過ぎない私が、ブログを飛び出して、本を出したり、選挙に出ても全く何も変わらない「日暮れて道遠し」という状況を見ても、こうした神道(しんとう)の代表格である彼の力を借りることは完全に「待ったなし」の思いである。

 まずは保育園での放置死や虐待が相次いでいる静岡県に行かなければならないが、この日本には未だ私の普遍的な知に耳を傾けるような謙虚さと自浄能力が残されているだろうか?