自著売り切れ/日本の終わり、大凶の10月/台風、大雨の被災地復興/五輪詐欺/立花氏批判 | 高澤 一成 「真の哲学者とは」

高澤 一成 「真の哲学者とは」

■哲学・社会学・社会思想に基づく「社会衰退の克服論」
■成人道徳教育(啓蒙)の必要性と、道徳と自由の両立

 

自著売り切れ/日本の終わり、大凶の10月/台風、大雨の被災地復興/五輪詐欺/立花氏批判

 


■地元の2書店で売り切れ。飛ぶように売れた(?)自著「いま僕らに必要な道徳」 




 10月には即位礼正殿の儀が執(と)り行われたにも関わらず、「日本の終わり」という予言が的中してしまい、天災、人災の凶事が相次いだ。
 しかし日本社会が苦境の中にあっても、私の本、「いま僕らに必要な道徳」(幻冬舎MC)の文庫版が、私の地元である立川のオリオン書房ルミネ店と、拝島駅のディラ拝島の2つの書店で、発売わずか1ヵ月ほどで売り切れになっていたのは、日本の道徳が復活する一縷(いちる)の望みであり、草の根の一歩であった(以下、道徳については、本ブログの最終項を参照)。

 この2書店には追加注文していただくことを切に希望している。  

 

 無論、「今の時代に道徳の必要性だけを知ってもらう」という主旨の同著においては、普遍的で重要な道徳について、私が書きたいことの1割も書かれておらず、これから来年に向けて、出版社は完全に未定であるが、日本人の誰もが知らない、普遍的で、理論的で、わかりやすい図を用いた、体系的な道徳の本を執筆する予定である。

 

 そして、私が付け加えなければならないのは、今の日本で道徳が必要なのは子どもではなく政治家、メディア、芸能人を始めとする「大人である」ということである。

 商業的な理由から「若者向け」としてあるが、子どもや若い人たちに対してお説教をする気は「全く」ない。むしろ私が怒っているのは大マスコミや、それに露出する戦後知識人に対してである。

 しかし大マスコミの9割くらいは「科学が100%だ」と本気で思い込んでいる。マスコミや戦後知識人、田原総一朗のようなジャーナリストには、哲学や道徳など相手にされない。
 

 だが、ノーベル化学賞を受賞決定した旭化成の吉野彰名誉フェローは、10月10日に日比谷で行われた記者会見でこう述べている。

 

   

 (10月10日 朝日新聞)


「一見ね、科学技術が非常に、もう進歩しちゃってね、もう全てのことが人類わかっちゃいましたと。多分、そんな受け取り方してるのではないかと思うんですよね。若い方はね。

 …実際はとんでもなくて、我々人類、自然現象の中で、ホントに理解しているのは多分1%か2%くらいだと思うんですよね。いくら科学技術が進歩しても、まだまだ知れてるんだよと。

 まだ98%、99%、未知の、哲学の状態で横たわってるんですよと。」
 

 吉野さんのノーベル賞受賞は当然テレビや新聞でも大きく報じられ、吉野さんのほとんどのコメントが報道、掲載されたが、この部分だけはほとんどすべての大マスコミによって報じられなかった。

 いわく大マスコミにおいては、科学は絶対であり、哲学はタブーであるのだと。

 また、この吉野さんのコメントを紹介した私のツイートや私のブログ記事をシェアしたツイートにも全く「いいね」が付いていないということからも、「いかに私の知名度がなくて、ツイッター上での哲学や道徳に対する理解や関心がないか」がうかがえる。

 

 だが吉野さんだけは知っている、「哲学が98%、99%である」ことを。


 

■「日本の終わり」という予言が当たってしまう ―国滅びて 「大凶」の10月


    

        (10月16日、11月1日 朝日新聞)

 22日に即位礼正殿の儀がおごそかに執(と)り行われたにも関わらず、10月は凶事が続いた。

 9月の台風15号に引き続き、福島、宮城県、神奈川で多数の死者が出た台風19号、さらには正殿の儀の3日後の、25日の大雨による千葉の甚大な被害、また政界では菅グループの菅原・河井大臣のドミノ辞任、また萩生田文科大臣の格差容認発言に端を発する英語民間試験の延期、IOCによる東京五輪のマラソン札幌移転、そして31日にはとどめと言わんばかりの沖縄の首里城焼失。さらには芸能界ではチュートリアル徳井の所得隠しと1億2千万円の申告漏れもあった。
 長く続いた力なき与野党の政治家の思慮分別のなさによって、国民を真実から遠ざけ、かつ貧しくさせられ、さらには非道徳にする悪政が路に就(つ)いてきた兆しにしか見えない。

 そもそもが公選法違反の疑いによってドミノ辞任した2大臣の親分であり、「移民推進」である菅義偉、道徳的ではあるが実行力のない、小泉純一郎の派閥の後輩である「政界のサラブレット」安倍晋三、さらには「緊縮増税・水道民営化」の麻生太郎というトリオに対しては、総辞職すべきという思いがピークに達していた。

 萩生田大臣は私と同じ明大商学部であり、私の地元に近い八王子の選出だが、加計学園問題に深く関与したとされるキーパーソンである。

 自民党には西田昌司という唯一国民のために働くことのできる京都選出の有能な政治家がいるが、閣僚には全く相手にされていない。無能な自民党の政治家、ことに大企業の言いなりである菅義偉と世襲政治家たちは、財政と経済政策のすべてを西田に任せて180度方針転換すべきである。

 私は子どもの頃「浩宮さまに似てる」とよく言われ、また20年近く前の「子ギャルブーム」に対しては道徳の観点から否定的なお言葉を述べられて、一日本人として、非常に親しみを覚える新天皇の即位に思いもひとしおであったが、日本それ自体は国民が豊かになる方向や道徳的な方向には全く向かっておらず、私自身が今この国でそれができる唯一の人材であると自負しているか、少なくとも他に誰も見たらない現状と、それでいて私が誰にも相手にされない状況を忸怩(じくじ)たる思いでいる。
 「私が出張らない限り、日本という国は完全に終わりである。」
 それは皆、「私の主観、思い込みだ」と思われるかもしれないが、政界も有識者も何も知らないか、何もしない人たちばかりであるし、彼らには全く代案がないのである。
 そんな中、唯一私が「国が滅びる」、「日本は終わりだ」と言い続けても、「日本は終わらないんですけどね」と言う人もいる。
 「そりゃ終わらない。」 
 アメリカの1%であるグローバル投資家やウォール街、大企業にとっては、搾取すべき対象である日本が終わってもらっては困るのである。
 「日本は終わらない」、イギリスの東インド会社や列強にアヘン漬けにされたインドや中国のように、貧困層、あるいは竹中平蔵の言う「B層」として、小泉父子にだまされて搾取される無知の状態は終わらないのである。

 皆さんが払っているNHKの受信料が結果的に官僚の天下りに回っているのはわかりやすいが、日本は有史以来一番の金持ちであるのに、緊縮財政で地方にも民間にもお金が回らなくなって、かつ皆さんのお金が消費増税やら郵政民営化やらで、一人で何兆円も持っているような「アメリカの1%」のためだけに、ことごとく搾取されるシステム作りが、小泉父子の「改革」という名の下に狡猾に進められているのである。
 だが私から見れば、それは「終わり」であるし、三橋貴明や藤井聡などは私とは比べ物にならないくらい厳しいことを言っている。 
 大雨や台風、首里城焼失も日本の政治に対して「目を覚ませ」という戒めかもしれない。
 だが被害を受けたのは今回もことごとく地方であり、霞ヶ関、永田町、都心はビクともしない。 

 江戸、東京は風水的に神々に頑丈に守られた土地柄である。
 江戸を設計した天海によれば、江戸は「四神相応」であり、つまり東に「青竜」たる平河、西に「白虎(びゃっこ)」たる東海道、北に「玄武」たる富士山、南に「朱雀(すざく)」たる江戸湾があり、四方の方角の神がそろうという。

 それゆえに今回の台風や大雨が神奈川や千葉を襲っても、東京だけはビクともしない。

 皇室のための江戸への遷都は正しかったという他ない。

 だがこれ以上、地方で災害が起きないためにも、全国各地で天災を祓(はら)う神事はこれから重要性を増す。
 また逆に東京は、処刑場のような忌み地が多いと同時に、今のところ日本国民をだまして、日本国民に災いだけをもたらす魑魅魍魎(ちみ もうりょう)どもを頑強に守る神々が多くおわす地である。


■被災地には貧しい国民ではなく潤沢な企業がお金を出すべき

 

    (11月3日・10月28日 朝日新聞)

 10月28日の新聞にあるように、台風による農林水産被害は1700億円だが、367兆円もの対外純資産があって、446兆円もの内部留保が大企業にある有史以来最もお金持ちの日本にとっては全く大した金額ではない。

 無論、かつての田中角栄や亀井静香、小渕政権なら、出し惜しみせずに財務省と衝突してでも、1兆円規模でドカッと財政出動しているはずである。

 だがそんな世界一大金持ちのハズの日本人を、世界一貧乏にするための「改革」が、郵政民営化に賛成した小泉純一郎以降の自民党の旧森派・清和会や、麻生派の世襲政治家によってものすごいスピードで進められているのである。

 台風の甚大な被害を受けて、どのテレビ番組でも台風・大雨被害の募金を募(つの)っており、募金をされる皆様の連帯やお見舞いの気持ちを示す行為は尊く、素晴らしい。
 だが日本国民はテレビのスポンサーである大企業に踊らされている。

 日本には367兆円もの対外純資産があり、大企業は446兆円もの内部留保を抱えている。
 

 つまり貧しい国民ではなく、彼らが、経団連が、日本商工会議所が、その気になれば、1兆円など造作もなく集まる。
 大企業はケチケチせず蓄えているお金を復興のために国に拠出すべきである。
 無論、被災者支援は地方自治体の役割であり、自治体の人手不足は深刻である。

 

 10月11日には政府によって台風15号の被害が「激甚災害」に、また10月29日には台風19号の被害が「非常災害」にそれぞれ指定され、前者によって地方財政への支援や被災者への助成が指定され、また、後者によって道路の復旧や工事の発注を国が代行できるようになったが、かつて小泉首相は国が地方へ支出している「地方交付税交付金・国庫支出金と公共投資」を削減した(菊池英博)。それによって小泉首相は、地方からなんと100兆円を召し上げて、アメリカの国債を購入する資金に充(あ)てたのである。

 大統領はおろか副大統領すら即位礼正殿の儀に来なかったアメリカの国債を、この際ドーンと叩き売っちまえばいい。
 そもそもが日本国民に対して、ありもしない「国の借金問題」を押し付けてきたのもアメリカであるし、アメリカいわく「1000兆円の借金がある」という我が国が、首里城の再建と台風と大雨の復興をするために「お金を使わなければならない」というなら、アメリカも米国債が全部売られることに納得がいくだろう。

 日本はアメリカの国債を120兆円も持っている。これは中国を抜いて世界一の金額であり、貧困化して災害に苦しむ日本国民のためにも1円残らず叩き売って、増税どころか逆に債権者である日本国民に100万円ずつ均等に還元すべきだ。

 だが日本の政治家には、世襲のお坊ちゃんしかいなく、つまりは国民を顧みない売国であり、田中角栄や亀井静香のようにお国のために命を賭けられる腹の座った政治家なぞ一人もいない。彼らには事を荒立てず、相応な要求をせず、保身のための売国しかない。

 

 「私たち世襲政治家のために、皆さんどうぞ、貧困と避難所暮らしとをガマンして下さいよ」と安倍晋三が言っているようである。そうした中で、私が最近放送されたNHKの「二・二六事件」の特番を見て、「今こそ二・二六事件を起こしたい」という気持ちが心の底でピークに達したのも詮無きことだろう。

 だが貧しい国民だけが逆に募金をして、つまり偽善的なテレビの、「人だまし」の喧伝(けんでん)によって、竹中平蔵の言う「政治に疎(うと)いB層」だけに募金をさせても、結果は緊縮増税と同じであり、ますます景気が悪くなるだけである。
 低所得の我々国民がすべきことは、自分たちの少ない蓄えを削ることではなく、できるかぎりのボランティアや物資の支援をすることである。
 無論、喜捨(きしゃ)、寄付、募金それ自体は尊い。
 だが大儲けしている大企業がスポンサーであるテレビが、番組の中で、彼らのターゲットである視聴者に対して、募金を勧誘するとなると話が全然違ってくる。





■都民がIOCにだまされた!「五輪詐欺」

    (11月2日 朝日新聞)


 五輪のメインイベントであるマラソンが札幌に移転されるくらいなら、小池百合子が「ドタキャンしちゃう?」と言って、オリンピックそのものを中止すればよかった。
 開催10ヵ月前でのIOCの独断による突然の「マラソンと競歩の札幌移転」に対して、小池都知事が「合意なき決定」とワケのわからないことを言っている。
 IOCに不満を表明したいのだろうが、政治に感情論は関係なく、「結果責任」だけであり、不満がつのる都民に対する「私は抵抗しましたアピール」にしか見えない。

 私個人は「札幌移転」は大賛成である。札幌にとっては願ってもない棚ボタだが、私が生まれる前年の1972年に、20代後半だった私の両親が地元で札幌冬季五輪を見て、今また極端な少子化によって景気が低迷している札幌に、五輪のメインイベントとグランドフィナーレが来るのは、70代半ばとなった私の父や親戚にとっては、故郷札幌の地に花を添え、人生の有終の美を飾る形にもなる。
 正直、道徳を切り崩しただけのケバケバしい欲望と、年3,119万人も訪れる外国人の海と、哲学も道徳も文化も教養もない商業的で軽薄なメディアと、永田町や霞ヶ関の魑魅魍魎(ちみもうりょう)どもが跋扈(ばっこ)する「※怨霊都市」東京の都心でやるくらいなら、すがすがしい札幌でやるのは大賛成だ。

 ※西浦和也氏が指摘するように、東京の都心には呪わしい忌み地が非常に多い。
 今の東京はハロウィンだけでたくさんだ!

 そして私は、美輪明宏さんや同氏を尊敬するYOUさんと同様、東京五輪自体にハナから大反対である。
 理由はたくさんあるが、まずIOCという組織が汚職で腐敗し切っていることと、五輪はサッカーのワールドカップとは「全く」異なり、世界中の大都市が手を上げなくなった不人気イベントであり、高コストかつ経済効果があまり見込めない「一過性の興行」に過ぎないことと、たかだかの外需のためだけに外国人観光客が年3,119万人と激増している日本で、これ以上の外国人が東京だけに殺到するのは日本の治安と文化を守る上で、極めて良くないということと、これ以上の東京一極集中によるモノ・ヒト・カネの東京への流出、ストロー効果は地方を疲弊させてしまうためである。

 事実、美輪さんの予言が見事に的中し、五輪にまつわる凶事が相次いだ。
 新国立競技場問題、メダルが見込まれた吉田沙保里選手の引退と池江璃花子選手の白血病、竹田会長の裏金疑惑による退任、五輪関連大河であるNHKの「いだてん」の著しい視聴率低迷、そしてトドメといわんばかりのまさかの「マラソン札幌移転」である。

 私は2020年の五輪を「初のイスラム教圏であるトルコでやるべきだ」と今でも思っている。

 東京は過去100年の間に一度やっているし、イスラム原理主義によるテロが頻発する近年、西側とイスラム圏との文明衝突を回避して、世界の融和を図るという普遍的なテーマも達成できる。
 そして「復興五輪」と題するなら、札幌ではなく福島でやるべきだろう。
 日本がここまで成熟し切った首都東京だけに固執するのは、アメリカが未だにワシントンだけに固執しているようなものであり、このままでは地方の発展は全く見込めないし、復興の名の下に塗炭の苦しみを味わった被災者のためにも福島を100年構想で「日本のニューヨーク」にするくらいの習近平に勝るとも劣らない一大国家プロジェクトを立ち上げるべきだ。
  だが財務省は未だに「診療報酬(医者の給料)を引き下げる」と言うくらい、過度な緊縮志向(ケチケチした考え)なのである。

 バッハ会長が今年9月に行われたドーハの女子マラソンの酷暑による棄権率40%を見て、急に「暑さ対策」を言い出して、「札幌に移転する」と言っても、そもそも東京とドーハは全く違う(でもこれが本当の、94年のサッカーワールドカップに出られない、そして東京でマラソンが行われないという「Wドーハの悲劇」?)。 

 東京が暑いということは今に始まったことではないし、第一今年の東京の7月は「とても涼しかった」ので都民としては全くピンと来ない。
 北半球のどの国も酷暑である7、8月に開催を求める米放送局の放送権料1兆3200億円というとてつもなく大きな金のためだけに動くIOCのセレブどものスポーツ興行よりも、今の日本に必要なものは国民の生活、台風・大雨の被災地の復興、首里城の再建である。
 

 いずれにせよ、IOCがここまで理不尽なちゃぶ台返しをするほど開催都市に対して絶大な権限を持っているなら、もうどこの都市も手を上げないだろう。
 また、東京都にとっては「アスリートファースト」が完全に裏目に出たかたちである。
 政治的に弱い日本が、IOCにそんなこと言われちゃグゥの音も出ない。
 日本がまだまだ国際社会でナメられている、軽視されているという証拠である。
 
 ただ豊洲移転のゴタゴタといい、都政を投げ出しての「希望の党」結成・国政進出といい、そして今またマラソンの札幌移転といい、小池百合子という「ヤマ師」の女性政治家にまつわるゴタゴタ劇は、正論で批判されても意に介さない、いつもながらの「政魂のたくましさ」とほほえましさだが、「東京都」の小池百合子と「国」の橋本聖子という、二人のショートヘアーの似た女性が並ぶ絵は、「日本の政治が女性にも開かれている」ということを世界に示すことができて唯一良かったと言えるのではないか。

 

  (10月31日 TBS「ひるおび!」)


 また、東京が持っていたマラソンと競歩が一瞬にして札幌に移るというのは、柳生博の「100万円クイズハンター」の「ハンターチャンス」を思い出すが、オリンピックのメイン競技でありグランドフィナーレでもあるマラソンと、競歩が札幌に移った以上、「2020年のオリンピックは半ば札幌五輪」である。
 少なくとも全世界の人たちの注目の大半が、東京ではなく札幌に長時間釘づけになる。

 逆に言うならマラソン以外の競技は同時進行的であり、ただでさえ人口の多い東京に、例年以上に外国人まで殺到し、テロ対策の警備も厳重に行われて、ゴミ箱はどこにも置いていないし、チケットだって取れないし、まともに観戦することなんてかなわない。つまりマラソン以外の東京で行われる競技は、「うるさいだけの騒がしい時期であるというだけ」である。

 

 また、日本の得意種目でもあるマラソンが札幌に移るということは、ハイペースになってアフリカ勢に有利ということとなり、さらに日本のメダルの数が減りそうである。
 私個人にとっては生まれてから青春時代を過ごした札幌の町並みを久しぶりに見ることができるが・・・。
 最初からIOCや東京五輪に否定的な立場で当選した都知事であれば、残り10ヶ月を切っての「東京五輪自体の中止」をIOCにちらつかせて、マラソンの札幌移転を回避することもできたかもしれない。

 日米関係もそうだが、人脈を自慢したいだけの全く中身のない政治家たちがIOCの連中と仲良くなり過ぎたから、逆に都民の利益を守ることができず、こんなことになっている。

 東京五輪にまつわる、一連の凶事を暗に予言していた美輪明宏さんに金メダルを差し上げたい気持ちだ。

 

 

 

■立花孝志の補選惨敗・議員失職、今後は立花氏を「一切支持しない」(11月9日 一部修正)

 まず私は、今のタイミングで立花氏が絶賛して擁立を進める新自由主義のホリエモンや、大金持ちの青汁王子を政治家としては支持できない。
 つまり日本人の99%はホリエモンのようにはなれないし、ほとんどの人がパイの取り尽くされた日本の新自由主義を勝ち抜くことはできない。

 立花氏にならってホリエモンを支持する人たちは、「今からでもビットコインで儲けられる」と本気で信じているようなものである。
 そして当たり前だが、私は1%の勝者だけではなく、「経世済民」によって多くの国民が幸せになれる社会を目指している。
 しかし、私には立花氏がここに来て国民ではなく、「ホリエモンだけのための政治」を始めているように見える。
 また、人を政治信条や能力、ボランティアなどの党に対する貢献度ではなく、表面だけ、つまり、知名度や学歴、肩書き、見た目、YouTube人気だけで判断する立花氏にもこれ以上付いていけなくなった。
 さらにはミーハーであり、政治に疎(うと)く、ホワイトボードにあいあい傘を書いて彼女を紹介するなど、公私混同が甚だしかった。
 また、2009年の政権交代によって、100兆円もの日本の国債が米国債や外資に流出することを阻止して財政の危機を防いだ亀井静香を信奉する私としては、立花氏が亀井静香に送られた刺客であるホリエモンの選挙を絶賛して擁立を目指し、また立花氏は、私の道徳提言に対して賛同のハカギを返し、埼玉で長く県知事を務めた上田清司を攻撃したため、私は立花氏と完全に袂(たもと)を分かつこととした。
 これだけ書くと私がホリエモンが大嫌いなように思われるが、全くそうではなく、彼は競争社会を勝ち抜いたというだけであり、彼ではなくて、小泉純一郎や立花孝志のように、彼のような知名度のある勝ち組を政治的に利用して、自らの支持に反映させ、かつ格差を拡大させようとする弱肉強食だけの新自由主義を進めようとする政治家を批判しているだけだ。

 

 現に立花孝志は、大企業には446兆円の内部留保があるにも関わらず「法人税は上げない」、つまり「大企業からこれ以上税金を取らない」という。

 その分の税収は必ず庶民の消費税から取るということになる。

 

 そうなってくると、「すべての政策はネットの多数決で決める」とする「直接民主制」という立花氏の公約は一体何だったのか?と。

 また、立花氏は「法律を作れる人しか衆院選に立候補させない」とずっと公言して、籠池佳茂さんの公認を断ったにも関わらず、党のホームページではキャバクラ嬢みたいな、外見重視の若い女性たちを立候補予定者としていることも合わせて、「立花氏は嘘をついている」と断じざるを得ない・・・。

 

 また、「法人税を上げない」という政策は、対談を申し込んで無視された山本太郎個人の政策を批判するために言い出したことであるが、「法人税から税金を取るべき」とする政治家は西田昌司など他にもいるのであって、「直接民主制」はおろか、「人の好き嫌いだけ」で政策を決めているのである。

 

 そして私が一番違和感を感じたのは、立花氏が全否定する青山繁晴や三橋貴明が「ゼロ」であり、小泉純一郎に重宝されたホリエモンや青汁王子が「100」であるとする立花氏の人物評である。メンタリストDaiGoさんに至っては「神」とまで言っていた。
 だが、その「神」であるメンタリストDaiGoさんが、当の立花氏に対しては「自慢をしないようにした方がいい」と忠告しており、それは皮肉にも的中している。

 当初は青山繁晴のように人気がある強い人を批判することで、「芯のある人」と思っていたが、私にとっては、能力の高い青山繁晴や三橋貴明を賞賛こそすれ、立花氏のように完全に全否定できるものでは到底なく、むしろYouTubeや政見放送の面白さだけで成り上がっただけの人たちを全肯定して重宝する立花氏の人物評には到底付いていけなくなった。

 つまり立花氏の人物評には政治信条や道義や能力ではなく、単に「人の好き嫌い」しかなく、項羽や呂布に近い「匹夫の勇」しかないのではないかという結論に達したのである。
 立花氏は埼玉の補選にも当初は「勝つ見込みがある」とうそぶいていたが、上田清司は中選挙区時代には同僚の枝野幸男も下し、その後も負け知らずの「選挙の帝王」である。

 私は当初から「立花氏は100%勝てない」と見ていた。
 だが彼はその後の情勢を見て、急に「勝てません」と手の平を返し、「投票率が低かった」と言い出したが、どんなに投票率が上がっても、90万票差を覆すことは不可能である。
 

 何よりN国の支持者の悲願だった「国会の立花氏の議席」を失ったことが痛い。

 立花孝志の当選のために、負けるとわかって自腹を切って参院選に立候補された方もいる。
 私は今の情勢で、再び彼が議席を取り戻すことは至難だと思っている。
 そして政治に詳しいとは言えない一介の医師に過ぎない浜田氏が繰り上げ当選したが、結局は党に対する貢献よりも、肩書きだけを彼は選んだのである。
 
 今立花氏がN国から立候補するよう声をかけていた清原和博も、あえて立花氏から秋波(しゅうは)を送られたタイミングで、「僕には野球しかない」という声明を出した―。
 そもそもが立花氏から声がかかっていた豊田真由子も青島健太も立候補しなかった。
 私も高須院長に遅れて続くかたちとなるが、立花氏個人を今後「一切」支持しない。
 私はTOKYO MXやマツコ・デラックスの発言それ自体に賛同するものではないが、高須院長の予言が当たっている。
 そして、参院選後のN国の地方選挙での苦戦を見る限り、国会議員になってすぐに「国会議員を辞めたい」と言い出した立花氏が、再び国政に戻るのは極めて難しい情勢になっていると思う。

 つまり日本に3500万人いる高齢者の中で、高須院長のようにN国に対して悪い印象を持っている人が増えているのである。主要なテレビ、新聞では立花氏は悪く報じられており、誰一人評価していないから当たり前の話であるが。
 私は立花氏を攻撃しているのではなく、逆であり、肥大化するNHKに対して緊張を与えるためにも「ずっと国会議員でい続けてほしかった」のである。

 それが上杉隆の諫(いさ)めも聞かず、投げ出してしまった。
 だが私がボランティアで応援した久保田、大橋市議や竹村、川端ら親交のあるN国党の所属議員や支持者の方々は今後とも応援していきたい。
 彼らの多くは至極純粋な人たちであり、爆笑問題の大田光が言うように、立花氏に振り回されて、気の毒な立場にいる。
 だが、私にとってN国の所属議員は「立花会社」の社員であるという認識である。
 それゆえ、今後とも社長である立花さんを盛り上げていくのは自然だと思う。
 

 そして立花孝志は元々パチプロであり、人気ユーチューバーであって、これからは政治家としてではなく、綾小路きみまろのようなエンターテイナーとして見ていきたい。

 去年までの立花孝志はいい政治家だったが、今は完全に変わってしまった。

 今後は一切立花氏個人については触れない。
 NHK問題と、N国にいる純粋な人たちについて言及するのみである―。

 



■「吉本はバカの集まり?」

 所属タレントの不祥事については、いいかげん吉本が責任を取るべき


    (11月2日 朝日新聞)

 吉本の不祥事が止まらない。宮迫博之の金塊強奪犯とのギャラ飲みを始めとする不適切な交流が取り沙汰されて舌の根の乾かぬうちに、今度は悪質な所得隠しだ。
 この徳井という人は税金をチョロまかすことだけ考えていて、「社会の一員として納税する」という憲法の義務の意識がまるでない。
 いい年こいて政治や社会について何も知らない「おバカさん」でも、ファンがいて、市場に需要があれば、公人として活動できるのは平和ボケして、弛緩(しかん)した(「気のゆるんだ」の意)日本くらいである。
 徳井は社会人失格である。
 世界中の国々には、宗教・宗派、民族、イデオロギーなどの社会的な問題や対立があって、冗談が通用しない深刻な問題が山ほどあることが当たり前なのに、こんな社会性のないバカばっかりをテレビに出し続けられてちやほやされている国なんて他にない。どうせ同じバカなら、坂田師匠くらい愛されるバカになってほしい。
 

 また普通、大企業の社員が大きな不祥事や犯罪を起こせば、その企業自体のブランドイメージが大きく失墜して、問題を起こした社員以外の人間も同じような目で見られ、メディアによって国民に広く知られ渡って、中には倒産、廃業に追い込まれる。
 だが、吉本はトカゲの尻尾(しっぽ)切りをする自民党に近く、所属タレントがいくら悪いことをしても、タレント本人の責任として切り離し、組織それ自体にはお咎めなしである。
 それゆえに自浄作用のない自民党と吉本はおごって同じ不祥事を繰り返す。
 なぜ吉本だけ守られているのだろうか?
 きょうびのお笑いタレントとは、人さまを「素人」と呼んで見下すが、謙虚さのない彼ら自身こそ全く赤子同然であり、常識を知らないのは完全にお笑いタレントの方であり、かつ芸事の大スターというものは、所属タレントの教育もまともにできない吉本のような無能な組織が育成して育てられるものではない。
 昔はいかりや長介やオール巨人のように常識人で後輩に厳しかったり、タモリやビートたけしなど、芸人にもある程度教養のある人がいたが、今は吉本の人気若手芸人や人気タレントに合わせて聴衆もバカになっていってしまう。
 それが「政治に無知」というだけならまだかわいかったが、今は反社会的な人物とのつながりであったり、所得隠しという「率先した悪」になっているからたまらない。
 また、お笑いに限らず、新井浩文や道端アンジェリカ夫婦の事件もあった。
 そして吉本のような看板だけに頼る、能力のある人のいない会社が、「お笑いをやりたい」という人だけを集めてマニュアルだけで育成しても、横山やすしのような天性の逸材は生まれないのである。
 せいぜいが、声が大きいだけとか、元気があるというだけの人たち。
 肝心の空気が読めなかったり、無知過ぎて気の利いた言葉がうまく出てこなかったりする。
 そういう元気のある人たちは人手不足の災害復興や老人介護など、芸能なんかよりも互酬性(ごしゅうせい)を満たす職場が日本中にある。
 お笑いタレントや俳優、モデルは、よほどの大物ではない限り、一人いなくなっても全く誰も困らないが、担当区域を任されている新聞配達員やゴミ収集員は一人いなくなると大変なことになるのである。無論、病院や施設で働く看護士、介護士もそうである。
 もし私がお笑いタレント、俳優、モデルなら、「新聞配達員やゴミ収集員よりもはるかに社会性が下の存在」という自覚を持つ。
 だが「楽して金儲けして、人気者になって女にモテたい」という若い人たちだけが殺到して、コネだけでテレビに出まくれるというのが日本の芸事やテレビ知識人の正直なところである。
 私が垂れ流し番組で芸人やアイドルやタレントを見ても「ちやほやされてうらやましい」としか思わない。

 その辺にいるガキがテレビに出て調子に乗っているようにしか見えない。

 プロの技や哲学を「全く」感じないのである。

 だからこそ、今のユーチューバーといい勝負になっているのではないか? 
 私が「芸人に厳しい」という人がいるが、「葉隠(はがくれ)」に心酔した三島由紀夫はもっと厳しい。
「芸は身を助くると云(い)ふは、他方の侍の事なり。御当家の侍は、芸は身を亡ぼすなり。

何にても一芸これある者は芸者なり、侍にあらず。」(聞書第一 一四一頁)

 徳井はまさに「芸によって身を亡ぼした」のではないだろうか? 

 

 

 

 


■本題 普遍的ではない儒教道徳は必修にはできない (11月9日 一部修正)

 地元の図書館の道徳、倫理のコーナーで書架を見ていたところ、江原啓之さんの「言霊(ことだま)のゆくえ」という本が目に止まった。
 その時、私は怪談師の西浦和也さんの「金魚に名前をつけてはいけない」であるとか、ファンキー中村さんの「車にひかれた猫を見てもかわいそうと思ってはいけない」など、言葉や思いに関する哲学的な思索をしていたので、「観念」としての存在である「霊魂のゆくえ」という意味合いで、いわば哲学的な観点から、スピリチュアリストである同氏の言霊の定義を読んでみたいと思い、同著を手に取ったのであるが、パッと開いてみたら、

 

 「第2章 今こそ必要な『道徳と修身』」

 

 …とあり、まさに私が出した「いま僕らに必要な道徳」の類書であり、完全に面食らったのである・・・。

 江原さんがこの本を出されたのは2012年と比較的最近であり、2005年から2009年の「オーラの泉」に出られていた当時は、テレビで「道徳」という言葉を使うことは一度もなかったし、「使えなかった」のである。
 この本の内容についてはこれから出す本について詳しく論評するが、結論から言うと、斎藤孝さんの「大人の道徳」も含めて、儒教道徳は必修には「できない」。
 …と同時に、メディアで有名な江原さんや斎藤さんでも普遍的な道徳を知らないとなると、日本に道徳を知っている人はいないと確信するに至った。
 私は儒教道徳を全否定しているわけではない。

 そして、もし科目として、「儒教道徳」を選択するなら、他の道徳を選択する必要はない。
 だが当然、儒教とは、孔子の主観的な人生観、人間観のようなものであり、あくまで、ある時代の、ある社会のための「便宜的な道徳」であって、哲学や社会学、社会思想で語られるような普遍的な道徳では全くない。

 そして無論、儒教道徳とは、三大宗教や仏教を超えられる代物(しろもの)でも全くない。
 だがもちろん、私は江原さんの前世がキリスト教徒であったことも知っているので、彼が世を救うために「便宜上の道徳」を勧めようとする心は現実的に有効であり、清い行いである。

 道徳が全くない状態であるよりは、教育勅語や儒教道徳はあった方がいいのは言うまでもない。
 だが私が言いたいのは、教育勅語や儒教道徳の効果を有効にするならば、デュルケム的に言えば、当たり前だが、それらが国体(こくたい)的に社会全体に行き渡っていなければならず、外の社会が非道徳であるのに、狭い学校の現場の道徳教育だけで子ども、少年を変えられることはもはやできないのである。

 もしそれをやろうとしても、デュルケム的に言えば、それは学校ではなく刑務所になってしまうのである。刑務所だから悪いというのではなく、つまり刑務所の標語は、刑務所でしか適用しない常識であって、シャバに出てしまえば全然違う世界でしょと。でも何とかしなければならないのは刑務所の中のモラルではなくてシャバのモラルなんですよと。

 刑務所を出所した後に、非道徳な娯楽だけが蔓延する社会の中で、刑務所で押し付けられた標語を一人で思い返して毎日読む人がどれくらいいるだろう? 人間が自由であり、外部の誘惑に弱くて、生理的な欲求がある以上、そんな人は数えるほどもいないし、万が一そんな人並み外れた自律の精神と行動規範のある人はそもそも実刑になるような犯罪を起こさないであろうから。

 

 また、儒教を肯定するなら、少なくとも林羅山の朱子学は、日本国民を徳川幕府に絶対服従させるために編み出された便宜上の道徳であることを踏まえておかねばならない。
 つまりは社会秩序のための身分制度、「士農工商」が絶対であり、ビートたけしは一生ペンキ屋でなければならないし、貝原益軒(えきけん)の「女大学(おんなだいがく)」においては、女性は男性に絶対服従しなければならず、そのような江戸時代の儒教によって虐(しいた)げられた女性の怨念はすさまじく、四谷怪談のお岩さんや皿屋敷のお菊さんのような、普通の女性を妖怪にしてしまう怪談も生まれたし、戦時の修身も含めて、歴史的に国民を虐げてきた政治的な儒教を今の日本人に強いることは「全く」適当ではないのである。

 但し、世襲政治家の割合が極めて高い自民党の政治家にあっては、自分たちの子孫が末代まで政治家でいられるように、伊吹文明議員以外は私の道徳提言を無視して、儒教道徳だけを積極的に学校教育に取り入れようとする動きが目立つ。
 対照的に同じ儒教でも、私を「自分の後継者に」と評価して下さった林田明大さんの陽明学は庶民のための儒教である。

 

 教育勅語や、斎藤孝さんの徳目(儒教道徳)、林田明大さんの陽明学、三島由紀夫が心酔した葉隠とは、「哲学で語られるような普遍的で社会的な道徳では全くない」が、文化、教養、たしなみとして、個々人が自由に選んで学ぶべきである。

 無論、「教育勅語=儒教」というわけでは全くないので、教育勅語単品ということであれば、江原さんのように道徳教育の一環として、教えることは適当である。
 だが同時に「儒教は普遍的な道徳でも何でもない」ということだけは広く浸透させなければならない。
 儒教には哲学的要素が薄く、さらには宗教よりも下位であるが、哲学で語られる「道徳」の概念とは、一つ一つの個別的な宗教よりも上位であり、普遍的なものである。
 そして教育勅語も、すべてが真であるわけでは全くない。
 明治天皇は聡明であり、教育勅語は当時の時代に則したものであり、明治天皇の主権によって、国体的にそのような道徳的な社会にすることができたが、今は全くそうではない(私は今の時代の、大企業や大マスコミによって歪められた民主主義に比べれば、明治天皇のような聡明な天皇による道徳的な天皇主権の方が優れていると信じるものである。だが大正天皇には脳のご病気があり、やはりそれは難しいのである)。

 そもそもが教育勅語や斎藤孝さんが自著で解説する「徳目」が、一つの道徳であったとしても、「標語」に過ぎず、それだけを以って、「1+1=2」のように、社会の構成員を完全に納得、承服させることは不可能である。
 つまりは上から、個々の内心に押し付けることになってしまう。
 そして、未熟で好奇心旺盛でエネルギーの有り余っている若い精神に対しては、彼らの理解や合意がなく上から押し付けられるものは反発されてしまう。
 

 「いやいや子どもに教えるからいいんだよ」という意見が大半だろうが、「月光仮面」のような勧善懲悪(かんぜん ちょうあく)が大勢(たいせい)であり、子どもを叱る大人がいて、社会全体がまだまだ道徳的だった昭和30年代ならいざ知らず、メディアやネットにアダルトな娯楽や非道徳な振る舞いの動画があふれ返っている以上、爆発的なエネルギーと欲望、感情のあるネット漬けの子ども・若者たちが、主観的で、禁欲的で、理論的ではない道徳を、自分の現実的な生活の行動規範にすることはほとんどない。 

 つまり、そうであるからこそ、現に陰湿ないじめや若い親による児童虐待がなくならないし、むしろ激増しているのである。
 もちろん、最初から天性で善人であったり、学校の道徳を素直に学ぶ子もいるので「全く無駄」というわけではない。
 だが、哲学や社会学、社会思想で語られるような全(まった)き道徳は全く別物であることをご承知おきいただきたい。
 そして夜中にマフラーを改造したバイクを爆音を立てて乗り回したり、特殊詐欺で摘発される少年が倍増する昨今にあっては、若者の内心に響かない標語的な道徳は焼け石に水になってしまっているのである。
 

 つまりは美輪明宏さんの言うように、「本人の気づき」がすべてなのであって、自由が絶対である今の時代にあっては、理論的に言って、儒教道徳は大きな意味を「持ち得ようがない」のである。
 ましてや儒教が三大宗教や仏教より下位である以上、道徳的な教えとしても儒教を上回るそれらの宗教に改宗することを誰が人さまに強制できようか。
 
 名高い有識者が、たとえ儒教道徳を子どもや道徳的ではない人に説いても、結局は社会学者の宮台真司の言うように「田吾作の言うことを田吾作は聞かない」となってしまうのである。
 

 そして、私は「道徳と自由」の両立をテーマとして掲げているし、道徳が失われることによって、これまでは認められてきた適切な教育や指導も、時にパワハラや体罰として、法律によって違法となり、会社や親の裁量の自由がなくなっていることは周知の事実である。

 

 そうすると「なんだ、道徳なんて意味がないじゃないか」と言う人がいるがそれは全く違うし、少なくとも前述したように、まず自由のために道徳が必要であるし、私から見れば、日本の有識者全員が完全に哲学、社会学、社会思想の勉強不足であり、官民ともに勉強不足を認めたくない人たちしかおらず、普遍的な道徳の存在を全く知らないからそのようになっているというだけの話である。

 端的に言うなら、日本人が自由を捨てないというなら、唯一普遍的であり、かつ「自由を守るための理性的な道徳」を選ぶ以外ないのである。
 私は同郷である故・西部邁の後継者たる道徳家として、今後も国民のために道徳の執筆を続けていく。

 (以下は自著にて叙述する)

 

 

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