おせち料理 | パートおばさんの日常

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兄が今年の正月に作ったおせち。
姪っ子に「福井のおせちってお刺身がつくんですね」
と言われたけど、家のにはついてません・・・
(たこの足の刺身はつくけど)

兄は子供の時から凝り性というのか、細かい仕事を苦にしないタイプでした。

ナイロン線にビーズを通して昆虫のアクセサリーを作ったり
夏休みには厚紙を張り重ねて高低を出し
山や川、平地の色を塗った
畳一畳分ほどの大きさの日本地図を作ったり。

 

いきあたりばったりな性格の私とは違うタイプ。
そして、とても面倒見がいい人でした。

 

両親共働きで、普段大人がいない家庭の中で
妹二人の面倒をよくみてくれました。
兄が母の代わりに、お昼に焼きそばやそうめん
焼きめしなんか作ってくれたことを思い出します。

 

大人になってからも、正月に帰省するときには
おせちづくりを手伝って
きんぴらごぼうを作ってくれたりしていました。

 

そんな兄が私は大好きで、子供のころは
生まれたてのカルガモが親の後ろをくっついてまわるように
兄の後ろを追っていた気がします。

 

兄は小学生になる前にヤマハのオルガン教室に通っていて
家にはオルガンがありました。

 

小学校に入ると、吹奏楽部に入り、花形のトランペットを担当していました。
しかし、それで特に秀でるというわけではなく、
友達と野球もするし、忘れ物は私よりも多いし
勉強の出来は中くらい、普通の小学生でした。

 

私も後を追って吹奏楽部に入りましたが、すぐ辞めてしまいました
兄は中学でも吹奏楽を続けて、高校は音楽専門の学部がある
私学に進みました。

将来は、留学もして、演奏家になりたいという夢があったようでしたが
安サラリーマンの家庭で、それに見合うレッスンを受けられるわけもなく
国立音楽大学を目指していたようですが
結局は別の音楽大学に進み、偶然受けた教員採用試験に受かって
中学校の音楽の先生になりました。

 

小さい時の兄を知っている私たちは、あの忘れ物も多かった兄が
学校の先生なんて!と思っていましたが
環境が人を形作るというのでしょうか、適職だったと今は思います。

 

学生のころの経験を生かして、吹奏楽や合唱の部門では
顧問の先生として、東京都でいろいろと活動していたようです。
晩年は副校長として、いわば管理職のような仕事をしていましたが

亡くなった後、学校にご挨拶に行った時、

兄がその管理職からもう一度学生に直接指導できる立場に

戻れるように申請を出していたことなどを聞きました。

その活動していたころが一番幸せなときだったんだろうなと
思います。

 

音楽、特に吹奏楽は兄の人生の主要な部分だったのだろうな
と感じています。