松江城、出雲からの帰路、かねてより訪れたかった残存12城の岡山県
高梁(たかはし)市、名高い山城、備中松山城、倉敷や岡山に近いなど
高速道路とはいえ山道の長距離、ナビで調べると何とかなりそうで
訪れることができました。
山に囲まれた高梁市。右の臥牛山(標高487m)から南稜線にかけて肉眼で
わずかに望む備中松山城。
標高430m、日本一高い残存山城。
天守は無いが、当地岐阜の岩村城址(標高717m)、奈良の高取城址(標高583m)が
日本三大山城と呼ばれる。
今回は細い山道、上下で管理下さる標高291mにふいご峠駐車場(14台、駐車無料)
まで登れましたが、土日や観光時はシャトルバスになるそうです。
駐車場から城まで結構急な登山になりました。30度超えの暑さの中、駐車場管理の方
から、必ず水を持って気を付けて登って下さいとのアドバイス。
登り続けると初めに現れるのが鐘楼跡。
鐘楼跡から高梁市街。
突然、複雑な石垣が目に入りました。
ここで出会った3人の女性方はこれ以上きつくて無理、もうすぐと思いますがと
伝えましたが、あきらめて帰られました(普通の観光スタイル)。
三の丸跡
松山城、重文3件のうちの一つ、三の平櫓東土塀。
黒門
二の丸跡から備中松山城。
天守全景、天和3年(1683)建築、二重二階、高さ10,93m。昭和16年指定重文。
ここは通路で1階への階段。
一階
一階には畳一枚分ほどの囲炉裏が造られていました。城に囲炉裏は珍しいそうです。
二階へ
2階、やはり狭く、窓には細かい桟が付けられているため、外の写真は撮れず。
関が原合戦以前は毛利氏や多くの城主が入れ替わったが、
戦後、小堀正一(遠州)親子が城主となった。小堀遠州は千利休とも並ぶ
大茶人でもあり、その子の政一(まさかず)が松山城の大改修を行った。
もっとも松山城は江戸時代も城下へ威厳を示すためで、普段は少ない人数で
管理されていたとも伝わる。
天守の裏に建つ二重櫓。こちらも重文。
この地は松の木の山が多いため松山と呼ばれ、松山藩、松山城であったが
明治2年に高梁に変更されたと伺いました。
城は愛媛松山城と区別するため備中松山城と呼ばれるようになった。
小さい天守ながら今まで訪れた城に負けず魅力溢れる古城でした。