普通を目指していたって人の言葉。
私自身は、普通って言葉、ずいぶん昔に手放した。
最初に、普通の流れからずれちゃったのは、浪人したこと。
自分の出身校では女性は珍しかった。
予備校に行ったら、女性もたくさんいたけれど、内心ドキドキしてた。
次の年受かり、1歳下の人と同学年だったけれど、まあ、なんとかなった。
次は、結婚。
同世代の友達がどんどん結婚する中、自分は青年海外協力隊へ。
青年海外協力隊へ行くことも、あんまり普通じゃないらしい。
(自分の周りにはたくさんいるので普通なんだけど(^^;;)
そんなことしている場合か?
と親戚に言われたけれど、まぁ、やりたいことをした。
結婚相手に出会えるかどうか少し不安だったけれど、適齢期に婚活するのではなく、やりたかったことを選んだ。
いちお、結婚して生きる道と、結婚相手に出会えなかった場合の道を考えていた。
(だって結婚は、相手がいるから、1人ではどうしようもないからね。)
その後、結婚相手にも運良く出会えた。
で、結婚した年は、まだ、自分と同じくらいの人もいたのに、結婚してから夫が青年海外協力隊に行ったので、子どもが授かったのは、ずいぶん後。
だんだん妊娠しにくくなるということを知ったのも遅かったので、なんとかなる気がしてたのもある。
運良くなんとかなって、2人授かった。
育休中のママ友達は、みんな下だったけれど、楽しかった。
(みんながどう思ってたかは、しらないけど)
たぶん、ここまでの私の生き方は、
「普通」
とか、
「こうあるべき」
とか言われたら、ずいぶんずれていると思う。
子ども授かるかどうか分からなかった時は、子どもだけは、はよしとかなあかんかったなぁと生物的に反省したけれど、子どもが授からなかった人生についても自分なりに考えていた。
人と比べてというより、自分はどう生きたいか、ってことを大切にしてきたと思う。
それは、予備校を選択する自由を与えてくれた両親のおかげなのかもな。
勉強できなかったけれど、短大か専門学校なら入ることできたと思うもの。
普通からずれたことで、ちょっぴりしんどい部分もあったけれど、自由を得たのかもしれないな。
そう思ったらありがたいことだね。
幸せは、自分が決めることだもんなぁ。
まわりと比べて幸せじゃなくて、自分が幸せだと感じたら幸せなんよね。
まあ、ママ友ちゃんとできるやろか、なんて、不安は多少あったけどさ。
でも、できなくてもまぁえっかぁくらいに思ってたな。
そんなこんなで、普通ってのを目指してドキドキしている人がいたら、ちょっぴりはみ出し気味でも、まぁ幸せよってことを言いたいな(*^^*)
うん。
幸せは、自分で決めれるのだ*(^o^)/*
なんか、夜中で、疲れてるのもあって、へんなテンション。
でも、このままあげちゃおう。
読んでくださった方。
ありがとうございます(*^^*)
ではでは。
No.162