太郎が地上に帰る日がきた。
竜宮城で初めて見聞きするもの全てに驚きの日々を送った太郎だったが、いつまでもここにいるわけにはいかないと思っていた。
太郎が城内の皆に挨拶をしている間に、乙姫は太郎に手渡すための品を亀に持ってこさせた。
「蓋が開かないように気をつけなさい」
「はい」
「これさえあれば、太郎は希望を必ず叶える事が出来る」
「…」
「そして、この城も栄え続けることが出来る」
「…」
「あなたは素晴らしいわ。太郎の夢と竜宮城のどちらのためにも働くことが出来るのですからね」
亀には、よく分からなかった。
この城に外から来た者が手渡されるのは、玉手箱。
つくり方は乙姫だけが知っていた。
その箱は、蓋を開けた者の生命力を時の力に変え、その一部を竜宮城に還元する。
そして時の力は、蓋を開けた者の望みに近い未来に、その者を送りこむのだ。
古の時代の先祖たちが生み出した時を超えて将来を知ることができる力、そのほとんどは大災害によって失われてしまったが、一部だけが玉手箱として伝えられている。
亀は、未来に思いを馳せる者をこの城につれて来るよう命じられていた。
その者に、確かな未来を与えるため。
亀は、何人もの若者を連れてきた。
その多くは自らの利益のためだけに、また、何人かは困難な状況から逃れるために、箱を開けた。
だが亀は、その者たちがその後どうなったのか知らない。
その者たちは皆、玉手箱を持って竜宮城から出る時にはもう亀のことなど頭になかったからだ。
けれど、太郎は違っていた。
太郎は、亀と会っていない時間を使ってキラキラするアクセサリーを作っていた。
釣りの疑似餌や錘を作るときのやり方を上手く使って、繊細で美しい造形を生み出していたのだった。
そして別れの前の日にプレゼントした。
太郎が首にかけてくれたそのプレゼントを身につけて、亀は待っていた。
乙姫は、太郎に箱を手渡した。
「太郎、この箱を持ってお行きなさい」
「これは?」
「玉手箱です」
「玉手箱?」
「この中には、あなたが望む未来が入っています」
「未来が?」
「そう。あなたの望みが実現する時に、あなたを連れて行くことが出来るのです」
「そりゃ本当なんだか⁉」
「ええ」
「んならすぐに連れてってくれ、そいつをこの目で見てえ!」
「それは地上に帰ってから。あなたが自ら、自分の意思でこの蓋を開ける必要があるのです」
「凄いでねえか!」
「だけど、一つだけ言っておきます」
「?」
「この箱の持つ力の意味は、時間に存在する可能性を現実に変化させるということ」
「てえのは?」
「あなたは、あなたの望む社会が実現する時にたどりつくかわりに、その分の可能性を失うということよ」
「んでも、その世界には本当に行けるんだべ?」
「ええ」
「なら、素晴らしいでねえか」
「この箱を開けるか開けないかは、あなた次第」
太郎は、乙姫から玉手箱を受け取り、礼を言った。
城の門の前で待っていた亀の背に太郎は再び乗り地上に向かった。
「おら、おめえさんの国さ来られて本当に良かった」
亀は笑顔だったが、自分からは話そうとしなかった。
「…」
「なんていうか、こげな世界があるとは夢にも思わなかった」
「…」
「珍しいもんもたくさん見せてもらったし」
「…」
「ありがとうなあ」
「…」
「…どうした?黙っちまって」
「ううん」
「また、会いてえな」
「うん、私も」
波打ち際で、亀は太郎に別れを告げた。
太郎は、玉手箱を大事に抱えながら、亀が波間に消えるのを見守った。
それからしばらくの間、太郎は希望と悩みを抱えながら忙しい日々を送っていた。
だが、村と村を取り巻く社会は簡単には変わらない。
太郎は次第に焦燥と無力感を強めていった。
部屋でひとり古びた畳の上に座り、その日の出来事と自分に対する苛立ちを持て余して右手を箪笥に叩きつけたとき、神棚の下の玉手箱がコトリと音をたてた。
そうだ。
玉手箱だ。
太郎は立ち上がり箱を手に取った。
家を出て、夜の浜辺に向かう。
その様子を遠くから見ていた者がいた。
ずっと太郎のことを気にかけていた亀が、乙姫の部屋の時空の鏡をこっそり覗き込んでいたのだ。
あの日、乙姫は言った。
太郎は知りたいのだ。己の願いが叶った村の姿を。
それは、玉手箱の力をもってしか成し得ない。
だが亀には、それが正しいことなのかどうか分からなかった。
太郎にとってそれが本当に幸せなことなのか。
それは、太郎の命が持つ可能性の力を奪ってしまうだけなのではないのか。
太郎。
一緒に笑って握り飯を食べた太郎。
竜宮城の秘密の場所を二人だけで見て回った太郎。
何も出来ねえけどと言ってアクセサリーを首にかけてくれた太郎。
だめ。
箱を開けてはだめ。
あなたは、玉手箱の力を使ってはだめよ。
「だめなの!」
亀は叫んだ。
「竜王さま!太郎を止めて!私の命の一部を使っていいから、太郎を助けて!あの人を時の彼方に送ってはだめなの!だからどうか、太郎を!」
竜宮の真の主は、亀の望みを聞き届けた。
太郎が玉手箱の蓋に手をかけたその時、空一面が唸りをあげ、見上げた太郎の目の前を巨大ないかずちが轟音とともに突き抜けた。
目の前が真っ白になり、光に包まれた太郎は、その場から強烈な力で弾き飛ばされた。
亀の望みは聞き届けられた。
だが、亀の命は、その力と引き換えるには足りなかったのだ。
亀は、泡となって消えた。
太郎は正午過ぎの太陽が照りつける白い砂の上に仰向けになっていた。
どこまでも青い空。
いつの間にか、眠っちまっただか。
太郎はゆっくりと立ち上がり、体中の砂をはらった。
その足元には、梅ぼしの種。
顔を上げた太郎は、前を向いてまた歩きだした。
その夜、空には見慣れない星が輝いていた。
竜王が、亀の命のかけらを星々の世界に留めたのだった。
沖合いでは、クジラがまた笑顔でジャンプを決めていた。