喫茶店でランチ
いつもと同じ、ちらほらと人が行き交う街のなか。
スマホの時計の表示は、いつの間にか14時を過ぎている。
でも、お腹はそれほど空いてはいない。
すこし先の角に見える喫茶店に入ろう。
暫く歩き回って疲れたからね。
開いた自動ドアから覗くと、店の中は予想通り空いていた。
ランチとティータイムに挟まれたこの時間帯は、静かな喫茶店を活用できる貴重なタイミングだ。
カウンターで注文。
カフェオレと、サンドウィッチを。
トレーを持って奥のほうに移動。
テーブルを確保してからトイレに行き、帰ってくると、サンドウィッチが全て食べられてしまっていた。
テーブルの周りには何も落ちていない。
ファーストフード店のように後から持ってきてくれるのだっただろうか、という意識がほんの一瞬、脳裏をよぎったが、そんなはずはない。
さっき自ら選んだサンドウィッチを、一緒にトレーに乗せて運んできたじゃないか。
それに、パンくずがトレーとテーブルの上に僅かに残っているみたいだ。
食べられてしまったことは明らかだ。
意味が分からず動揺していたが、ゆっくりと、落ち着きはらった素振りで荷物を置き、椅子に腰を下ろした。
買ったばかりのサンドウィッチが食べられてしまった。
しかし、だからといってどうすればいい。
店員に、サンドウィッチを食べられてしまった、と訴えるのか。
もしそうすれば、店員は高い確率で代わりのサンドウィッチを持ってきてくれるに違いない。
が、それは私の求める結論ではない。
それでは自分があまりにも惨めだ。
改めて辺りを見回す。
本を読んでいる初老の男性。
スマホを弄っている若い女性。
勉強をしている学生もいる。
誰もが、真剣な面持ちである。
窓辺から差し込む光。
ジャズやイージーリスニングの旋律が、午後のひとときに安らぎを与えてくれる。
この、あまりにも平和な空間において、サンドウィッチを食べられてしまうという状況があり得るのか。
やはり、私はサンドウィッチなど買ってはいないのではないか。
なにか勘違いをしていた、ということではないのか。
いや、そんなことはないはずだ。
そうだ、レシートがある。
ほら見ろ。
しっかりとサンドウィッチと印字されているじゃないか。
やはり、私は間違ってなどいなかったのだ。
その確認は、私の中に微かな安堵と満足感を生んだ。
(店内に流れる音楽)
いや、違う。
何を満足しているのだ、私は。
だがしかし、この状況はいかんともし難い。
よく分からないが、さっきの緊張感が解れてやっとお腹が空いてきた。
食べられてしまったハム玉子のサンドウィッチ。
もう一度買うか。
いや、同じものをまた買うのは気がひける。
というか、よっぽどハム玉子のサンドウィッチが好きなのだと思われてしまうではないか。
それだけは避けなければ。
ここは、ヘルシー感の高いハムとレタスとトマトとのやつか、思いきってポテトとレタスのやつにするべきだろう。
いやいや、違う。
何を悩んでいるんだ、私は。
そういう問題じゃなかっただろう。
その時、離れた席のサラリーマン風の男性が席を立って出口に向かった。
私の前を横切る男性。
その口元に、パンくずが付いていた気がした。
よく見るとトレーの上にあるのはカップだけだ。
あいつじゃないのか。
どうなんだ。
違うのか。
私の頭は一気に回転数を上げた。
スマホを取り出してSNSで呟く。
→ どう思う?あいつじゃないのかな?
← んー、あり得るね
だいたいこの時間に喫茶店にいるサラリーマンてあやしい
← 違うんじゃないの?根拠もなく人を疑うのは良くないと思うが
← 不景気だし、給料も下がってるからあるかもよ
← そういう格好なら疑われないと見込んでる偽サラリーマンかも
← ていうか、お前は喫茶店でなにやってんだよ
← 実は自分で無意識に食べたんじゃないのか
それぞれに回答する。
→ だろー。トレーに皿、無かったと思うし、絶対あやしい
→ うーん、確かに根拠はないんだけどね
→ あるよね、今の社会環境ならね
→ えー、そこまで考えてるやつがいたら怖いな
→ 昼まだ食べてないし、やっと休憩だよ
最後のコメントは無視したが、すぐにそれぞれのコメントが返ってきた。
← その人って、店の中で何やってたの
← とりあえず店員さんに言ったほうがよくない?
← 他に怪しいやつはいないのか?
← で、どうするの?私はポテトとレタスのをお勧めするけど
再び回答。
→ 携帯弄ったり、メモ帳に何か書き込んだりしてたな
→ やっぱりそうかな、でも変なやつだと思われなきゃ良いけど
→ それがさ、他に怪しそうな人は居ないんだよね
→ もう一度買っても良いけど、食べるのは他のお店にしようかな
← それって普通に仕事してるだけなんじゃないの?
← まあ信じてもらうのは難しいね
← バイトの店員が犯人って線は?
← でももう3時になっちゃうよ
また回答。
→ そうかも。
どこかで食事した後に喫茶店に入ったのかも知れないか
→ だろー、俺なら信じないよ
→ なるほど、そういう可能性もあるか、確かにそれだと分からないよな
もう15時か。
そろそろ行かないと。
→ もう時間がないし、やっぱり食事はパスだ
説明するのも面倒だからカフェオレ飲んだらもう行くよ
私は店を出た。
午後の日差しの中に、早くも夕方の香りがする。
何だかおかしな出来事だったけど、まあ、いいや。
無意識で口元に触れた指先に、パンくずが付いていないか確かめてみたけれど、何も付いていなかった。
風が、街路樹の枯れ葉を辺り一面に振り撒いていた。
人は、不可解な出来事を前にすると、自分の納得のいく理由を何とか見つけようとしますよね。
結論を出すまでには誰かに相談したり、あれこれ考える時間が必要ですが、SNSによるコミュニケーションはその過程を一気に縮めたのではないかと思います。
しかしそれは、完全な個としての他者に対する問いかけではありません。
自身において自問自答されるべき意識が、他者との関係を借りた形のコミュニケーションの中で成立してしまっているからです。
この意思決定の過程では、複数のやりとりの中から、より自分の無意識との親和性が高い意見が選択されていきますが、この時、他者の存在は拡張された意識に包含されているのだと言えます。
ですから、やりとりの中の一言を取り出して、それが、それを発言した人間の個人としての考えなのだと断定することは誤りです。
誰かの呟きを非難したいと感じたときは、すこし間をおいて考えると良いと思います。
呟かれている言葉は、意思決定に至る過程で発せられている考え方の可能性の一つでしかありません。
意識が選択肢を広げるために、あらゆる方向に相反する極端な意見が発生している可能性があります。
そしてそれは、より良い結論に辿り着く為に必要な、実験的な過程です。
私たちは今、思考そのものを自らの外部に拡大しつつあるのだとも言えます。
こうした変化の中では、個としての自分の本当の想いや考えを大切にする意識を明確に持つことが、なおさら重要になると思います。
自分の想いを自ら歪めてしまうことや、他者の考えを意識することで毎日少しずつ自分自身を押し殺してしまうことは、社会に負の影響を与えてしまいます。
自分の想いを伝え、他者の考えを理解して、そして自分の考えをかたちにすること。
他者に遠慮することはなく、自分勝手にならずに、自分を大切にして考え発言し行動すること。
そのためには、自分と他者のそれぞれの個としての存在を改めて認識する必要があると思います。
意思決定の過程に働きかけることを始めた多くの情報の中で、自分にとっての本当に大切なこと失わないように気をつけながら、みんなで社会を良い方向に発展させていけるとよいですね。
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