人はどうして美しさに反応するんでしょうか。

 

 

 

美しい自然、美しい造形、美しい花、美しい人、美しい文字、美しい数式・・・

 

 

 

こうして見ると、当然のように視覚で捉えられるものが並びますね。

 

美しい食事、はやはり視覚からですし、美しい香り、も視覚化されたイメージとのつながりの中で成り立っている感じですよね。

 

美しい音、には何かすこし違う雰囲気を感じます。

音色と言いますから視覚とは密接に関係していると思いますが、五感の中で何かが交差しているような。

 

美しい手触り、くらいになるとちょっと上級者向け?

 

美しい味、となると、これはすこしどんな感じなのかを考えてしまいます。

 

 

 

しかも、それぞれの美しさの中には更にいろいろあって、一つの基準で優劣をつけるのは難しいですよね。

 

多分、美しさに順位をつけることは、あまり意味の無いことなのだと思います。

 

それよりも、どれだけ多くのものに美しさを感じることが出来ているかが、日々の生活の本当の豊かさを測るための大切な指標になることを最近とても実感しています。

 

日常の生活の中で美しさを感じられなくなったら、それは自分の本当の気持ちからかけ離れた行動を無理に続けていて、心に余裕が無くなってしまっている証拠。

 

不思議なのは、忙しくて時間が無いだとか、物理的、物質的な余裕が無い、というのは美しさを感じるかどうかに直接は影響しないということ。

 

確かにそれらも原因の一つになっている場合は多いだろうけれど、やはり心が自分の本当の思いから離れてしまったときに、美しさは感じられなくなってしまうのです。

 

 

 

きっと生命の進化の歴史の中で、天敵や天候による危険の無い、より安全で安心できる環境を求めたり、食事や子孫を残すための豊かさを得られやすい環境を望んだ結果として、満足を得られる状況に美しさを感じるようになったのではないかと思います。

 

だから、理解しにくいもの、分かりにくいもの、変化の激しいもの、不安定なもの、などには不快を感じることのほうが多くて、美しさは感じにくい。

 

雑多な環境に居心地の良さを感じことがあるのは、それが外敵から身を守るための隠れ家に似ているからかもしれませんね。

 

 

 

美しさを感じられなくなっている自分に気付いたら、一度立ち止まって美しいものたちにふれてみると良いと思います。

 

もしも、その美しさに対して嫉妬に似た不愉快な気持ちだけを感じたら、その状態はちょっと危険。

出来るだけ美しさを主張しないものの中で、自分の本当の気持ちが行動とずれていないかを、自分と何かを比較する気持ちを取り払ってから確かめてみてください。

 

プチひきこもりっぽい感じですが、これは意外と効果的。

 

余計な考えや意識の中で暫くもがいているうちに、小さい、美しい何かに気付いて、

いつの間にか、いつもの素直な感情の自分に戻ることができると思います。

 

 

 

 

 

 

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