小学校の頃、毎日の出来事を短い日記のようなノートに書いて提出することになっていましたよね。
生徒たちの日常の様子や変化を把握するツールとして先生は重宝していたのだと思いますが、それにしても毎日何十人もの日記にコメントを返すのは、結構大変だったのではないかと思います。
それに、私が書いていた内容はそうした目的から完全に外れてしまっていました。
訳の分からない暗号めいた散文であったり
突然、6日分のページを勝手に費やした大作であったり
~ページを見よ、といった指示付きであったりして
日常の様子はさっぱり分かりません。
先生からのコメントも
『何ですか?』
であったり、『?』、だけであったりしていましたが
それはそれで満足だったような気がします。
そんな̪日々を経て高校生になった時、先生との関係性に何か違和感を感じるようになりました。
その原因は生徒を子供扱いする先生と、大人扱いする先生が同時に存在していたことでした。
先生と生徒という枠組みを絶対的なものとして捉えてしまう傾向があった当時の私としては、前者タイプの先生に対しては子供っぽさを演じて見せなければならないし、
後者タイプの先生には背伸びした大人っぽい考えを示す必要があったのです。
校内には、前者タイプの先生に対して大人っぽい思考による反発をして、全く理解を得られない生徒がいたり、後者タイプの先生に幼稚な思いをぶつけて、失笑をかってしまう生徒がいたりしました。
私は、そんな個人間の精神的な成熟度のあまりの違いに困惑して、危うく自分のニュートラルな位置を見失ってしまいそうでした。
高校では、学力レベルの近い生徒が集められている場合が多いわけですが、精神的な成熟度の相違には相当な差があるにも関わらず考慮されることはほとんどありません。
この違いから発生している自分の中の違和感を、言語化して整理できないまま悩んでいる生徒が、いまの社会にも結構いるのではないかと思います。
精神的に自分とほぼ同レベル成熟度の友人を得られた人は、きっと楽しい高校生活を送れるでしょう。
自分よりも精神的に高いレベルにいる友人や先輩や先生に恵まれ、客観的に自己を分析する余裕もあれば、そこから得られるものはとても多いと思います。
高校の頃の私には、思考がとても似通った友人が一人いました。
ものの見方、考え方が驚くほど同じなので、同じものを見たり聞いたりした場合、
ほんのひとこと、ふたこと言うだけで、言いたいことがほぼ正確に伝わってしまうため、会話の進み具合が驚異的に早い。
同じ時間で他の人との会話の3~5倍くらいのやり取りをすることが出来たし、一緒にいる別の人には内容が伝わらないようにして二人だけの会話を進めることすらできました。
けれど、それは良いことばかりではありませんでした。
そんな不思議なコミュニケーションを続けているうちに、他の人との会話が煩わしく感じられるようになってしまったのです。
そしてある日、他の人とのコミュニケーションがうまく取れなくなっている自分の存在に気付きます。
その友人も、同時期に同じことに気付いていました。
それ以来、二人の仲は次第に疎遠になっていきました。
自分に似た考えの人が近くにいてくれることは素晴らしいけれど、あまりにも似すぎていると逆にマイナスになることがある。
そんなことを実感した出来事でした。
社会において新人を見る先輩の目は子供扱いであることが圧倒的に多いと思います。
(最近はちょっと変わってきたかも)
ですが、中には精神的な成熟度が相当高い人もいるはずです。
新人を部下に持たれた方は、その人が実はこちらのレベルに合わせて対応しているのではないか、その人は本来のレベルを発揮できずにいるのではないか、ということを意識して接してみると良いと思います。
そして、その人が自分の考えと同じであることで安心するのではなく、異なる意見を持っていることこそを尊重すべきだと思っています。