ヘリケ自治国の西、広大な森林地帯の外れの泥炭部は、南北に走る山脈とともにカデレナ大陸の自由な往来を阻害している。

 

大規模な兵団、特に騎兵隊の通過は困難であり、周縁部を森に沿って通過するか、山岳を徒歩で迂回するしかない。

ロバックはこの周縁部を僅かな供をつれて進んでいた。

 

この地理的な条件と他国の干渉を望まないヘリケ自治国の存在により、この一帯はマシーモに加えてバシュナ、レセタ及びヘリケの四ヵ国が隣接する要衝の地でありながら、特定の国が兵力を駐在させることもなく徒歩での往来が可能であった。

 

もっとも、この地を日常的に通過するのは森で働く者や商人が殆どであり、そのそれぞれが自衛のために武装していた。

大きな争いごとが発生することはなかったが、好んで通過しようという者はいない。

 

澄んだ空の下、森の木々達は風に葉を委ね、穏やかに佇んでいる。

数千年の時を越え、この地で繁栄してきた多様な生きものたちも、人間の争いなど意にかけぬかのようにその命を謳歌していた。

 

 

 

 

泥炭部は山岳部を流れる養分を多く含んだ水が一端地中に流れ込み、広範囲に広がる岩盤を底として再び地上に滲み出ることで形成された。

その流れがごく浅く広がる川となり、水とともに運ばれた養分と植物の種が深い森を育てた。

 

森で生きる者たちはその恵みによって生活を豊かにしてきたために、他国に対する領土拡大の野心は生まれず自ら技術を発達させることで力を蓄えてきた。それが現在のヘリケ自治国の前身、エリノリム公国の姿であった。

 

ロバックは、常に風や雲の動きに意識を向けていた。

ガルニアで天候を武器に戦ってきたロバックにとって、その微妙な変化を感じることは自らの生死を左右するほどに重要な意味を持っていた。

 

そのロバックの耳が、風に揺れる木々の梢とは違う枝葉の摺れる音を感じた。

 

黙って歩調を変えたロバックの様子に、供の者達は周囲に何かあることを知る。

 

次の瞬間、ロバックは駆け出し、木々の陰を伝って身を隠しながら身に付けた楔を手にした。

 

こちらから攻撃はしない。

敵意のあるものなら必ず向こうから攻撃を仕掛けてくるはずだ。

 

鋭い風の音。

 

身を翻したロバックの右肩のすぐ横を短い矢がすり抜けていく。

 

更にまた一つ。

 

今度は背に衝撃。

 

(しまった!議長への土産が!)

 

矢は背に負った皮袋を貫通して高級な干した海の幸を破砕した。

 

(くそっ!)

 

ふり返りざまに手にした楔を放つ。

 

茂みが大きく動き、その影から一人の男が現れたが、その右腕にはロバックの放った楔が食い込んでいた。

続けて数人の男達が木々の間から現れた。

手には狭い場所でも使えるよう加工された特殊な弩を持っている。

 

ロバック達は短刀を手に対峙した。弩を構えた兵士達との距離を保ちながらゆっくりと身を滑らせ、相手の隙を伺っていた。

あの紋章はセルカトだ。

 

それぞれの兵士は、照りつける陽の下でずっと睨みあったままでいた。

 

その時、森の中から鳥の大きな群れが一斉に飛び立ち、兵士達の周りを低く飛び抜けていった。

その瞬間、ロバックは斥候の一人に接近して斬り付け、更に身を返してもう一人をも一刀のもとに斃していた。

 

セルカトの斥候は皆、矢を放っていたが、幾つかは空を切り、また幾つかはロバックの部下達の短刀や腕に付けた小さな防具によって弾かれた。

 

鳥達が飛び去った後には、斥候たちの骸が横たわっていた。

所属部隊を示す右腕の腕章。

それはヘリケの森に駐屯しているらしいランディエルの部隊のものだが、弩は自治国のものだ。

 

セルカトが自治国の兵力を自由に動かせるとしたら、それは、マシーモにとって厄介な相手が一つ増えることになる。

 

 

 

 

 

 

セルカトの属国、メルキトの女王アラクシアはセルカト王妃の姉である。

嘗て強力な海軍力を持ってカデレナ北東部を席捲したメルキトであったが、セルカトとの長きに亘る戦いや、統一前のレセタ国内の戦乱の影響を受け次第にその力を失っていった。

アラクシアの父王は、姉妹の一人をセルカトに差し出すことによって決定的な被害を受けることなく国の存続を図り、まもなく退位した。

 

アラクシアはセルカトの妹に向けて手紙を書き送っていた。

 

私は必ずあなたを助けに行きます。だから安心して。セルカトが過った道に進まぬよう、あなたの本当の力を発揮する時がきたのです。海神のご加護がいつもあなたと共にありますよう。

 

アラクシアは温存してきた海軍力を整え、出兵の時に備えた。

陸上兵力は限られているが西に連なる山脈がこの国を守ってくれる。

もしもレセタがセルカトかメルキトに侵攻しようとすれば、両国はレセタを挟み撃ちにすることが出来る。

海と風の神がきっと私達を守ってくれるはず。

 

 

 

 

 

 

ルティードは自治国の森に駐留していたセルカト軍の一部がセルカト本国の部隊と合流し、南下しつつあるとの情報を得た。

そして、その陣容からセルカトが自治国の兵器を中心とした本格的な攻撃に出るつもりであることを理解し、直ちに応戦体制を整えるよう指示を出した。

 

西域に向かわなかった第一大隊配下の中隊一万二千、帝都大隊の一万六千。

この数は、自治国に残るランディエルとザミテラの代理であるフィルダスの部隊の合計とも大差のない程度の数であり、帝都カルアカラを守るには相当に少ない兵力であった。

一方、セルカト軍は西方守備中隊の副官セルドアムが率いる約五千の部隊とザミテラの自治国軍約五千に加え、本国から一万の大隊が戦陣に加わっていた。

 

ルティードはセルカトの判断の早さに、いささか驚いていた。

 

憶測好きなセルカト議会が、これほどに早い決断を下せるとは思えない。

ラザノルドを追い出した自治国の反乱軍がセルカトを煽っているはずだ。

セルカトからすれば彼らが自治国の軍勢を率いているという形を示す必要がある。

つまり、セルカトはまだ本気ではないはずだ。

こちらが一斉に攻撃を集中させれば、熟練度の高いセルカト軍と言えども崩れるのは早いだろう。

 

問題は、自治国の兵器。

 

斥候の話では、秘密裏に開発されたと噂された奇妙な砲を備えた機体が二体、他の通常兵器はセルカト軍のものとはいえ、自治国の兵器の未知の力はルティードに戦略に対する不安を抱かせる要素となった。

 

「ミルシュ殿、帝都防衛隊を前線に向けて頂けませんか?」

 

ルティードは杖を突いたまま椅子に腰掛けたミルシュに向けて言った。

負傷して手当てを受けた後、部下に支えられて登城していたミルシュは、苦しそうに目をしかめて答えた。

 

「帝都防衛隊は、帝都大隊の最後の砦、カルアカラの楯となる存在だ。城下を離れるわけにはいかん」

「自治国の兵器は、遠距離から攻撃が可能です。城下に近づいてからでは遅い。防衛隊を前線に出し、一刻も早く防衛線を築く必要があります」

「しかし、それではこちらからの攻撃が出来ぬではないか」

「ミルシュ殿の部隊には、優秀な砲兵隊がいる。彼らを、防衛隊の後ろに配置して頂きたいのです」

「…、突破されたらどうするつもりか」

「第一大隊の各中隊を両翼に配し、突破される前に敵の側面を突きます。砲兵隊にはセルカトの大隊を攻撃して頂く。自治国の兵器からの攻撃を困難にし多方向からの攻撃を仕掛ければ、勝ち目はあるはずです」

「…」

 

やりとりを黙って聞いていたマシーモの王、ディオネールはルティードの考えを認めた上で尋ねた。

 

「帝都の守りはどうする」

 

ルティードは、悩んだ素振りをして答えた。

 

「南東の連中に任せます」

 

ミルシュが、声を荒げた。

 

「馬鹿な!ガルニアのやつらに城下を守らせるというのか」

 

ルティードは笑顔で回答する。

 

「守りが手薄となった城下には何者が入り込むか分かりません。或いは暗殺者が忍び込むことも考えられる。そうした状況で最も力を発揮するのが彼らです。城下の守りは帝都直轄部隊と彼らが担います。それに、彼らは海賊ではない。目的のもとに統制された勢力です。陸には正式な領土を持ちませんでしたけれどね」

 

 

 

 

 

 

セルカト軍南進の知らせは、ウナーナのゼノビアル侯爵にも届いた。

ラザノルドはその知らせを聞くや、八千を超える集団となった自国の兵士達のもとに駆け降りて行った。

傍に控えていたノルウェルドは、これで自治国の兵士達が城の蓄えをこれ以上消費することなく去ることになるのではないかと期待に胸を膨らませたが、その思いが表情にでないよう努めて深刻そうな顔をつくった。

 

ゼノビアルは状況を逐次、王都アーベンウェイドに報告していた。

王都から具体的な行動に関する命令は無かったが、セルカトとヘリケの状況、そしてマシーモについては動きがあり次第、即座に伝えるよう指示されていた。

 

現在、自治国の森に残されているのはセルカト軍と自治国の反乱軍の約二万。

最新兵器を含む約五千の自治国勢がセルカト本体の大隊と合流して南進中。

マシーモの状況は不明。

セルカトではなく、バシュナから攻撃を受けたとの情報がある。

 

しかし、マシーモとバシュナの戦いが起こるとすれば国境の山岳地帯のはずだ。

それにマシーモには第一大隊、東域方面軍だけで五万とも言われる兵力に加えて、精鋭を揃えた二万の帝都大隊がある。

セルカトの一個大隊程度では勝ち目はないだろうに。

 

ゼノビアルは、自治国を囲む森林の先の空にたなびく白い雲から、再び城下の兵器群に視線を落とし眉を寄せた。

 

 

 

 

 

 

ラザノルドは兵士達の士気と兵器の整備状況を確認して回った。

 

八千の兵と工廠の兵器が十三体。最新ではないが自治国の技術の粋を集めた機体だ。

レセタから援軍を出してもらえさえすれば、ヘリケの森を取り戻せるかもしれぬ。

 

これまで自治国は他国の干渉を受けず、自分達の力だけで自由を守ってきたのだ。

セルカトに靡いた兵士達も、他国に従うことを善しとは考えてはいないだろう。

 

ゼノビアル侯爵殿より、何とかレセタ軍の支援をお願い出来ぬものか。

 

そんな思いを抱きながら新たな編成を指示していたラザノルドのもとに、面会を求める者が現れた。

 

マシーモからの使者、軍師ルティードの命を受けたロバックであった。

 

 

 

続く