古典落語「柳田格之進」を原案とした人情時代劇です。

 落語の「柳田格之進」も元々は講談を落語に翻案したものです。講談師の経験もあった古今亭志ん生が人気演目にして、現在に受け継がれているといわれています。志ん朝の音源や映像もいくつか残っています。
 落語の演目名には別名があるものもあり、「柳田格之進」も最後に「堪忍のなる堪忍は誰もする。成らぬ堪忍するが堪忍」という慣用句で締めることから「柳田の堪忍袋」としたり、碁盤を真っ二つ斬り分けて事を収めることから「碁盤割」とする場合もあるそうですが、私は見たことがありません。ちなみに本作の「碁盤斬り」は別名の「碁盤割」からですが、このことからも脚本家の加藤正人が落語に精通していることを思わせます。

 古典落語は長屋を中心とした一般庶民の目線で描かれる作品が中心なので、権力の上に胡坐をかいているような武士は悪く描かれることが多いのですが、「井戸の茶碗」や「柳田格之進」のように堅物の好人物として登場する作品もあります。そういった侍には共通点があり、国を追われて浪人となり長屋暮らしをしています。
 つまり武家屋敷に住む侍は猛々しいイメージですが、長屋で暮らす浪人は町人に身を落としていることもあり、むしろ尊厳を保ち、自分を律しながら生きる立派な好人物としてのイメージです。
 育ちが良いから品があり、教養も身に着けていることから一目置かれた存在として描かれます。

 柳田格之進も浪人となり、長屋で娘と二人で細々と暮らしています。どういった経緯かはわかりませんが、遊郭の女将と親しくしています。
 皆から立派な御仁とみられていますが、融通が利かないところがあり、いささか窮屈というのが玉に瑕といったところですが、囲碁が好きで、その腕前も相当に高いという一面もあります。
 そんな格之進がある日、碁会所で不遜な態度の源兵衛を見かけ、賭け碁をしますが、相手を追い詰めたところでなぜか投了してしまいます。

 大金を溶かしてしまった父を「らしくない」と娘は苦言を呈しますが、そんな娘も実直な性格を受け継いでいるという似た者親娘です。

 詐欺を未然に防いだことから碁会所で相手をした源兵衛と親しくなり、碁仲間となり互いの家を行き来するようになります。がめつく大柄だった源兵衛は格之進に感化され囲碁の手筋もビジネスの信条も大きく変わり謙虚になります。

 十五夜の晩、国元からの使者によって事の真相と妻の自害の原因を知った格之進は仇討ちを決心します。

 主演の草彅剛は、実直な侍を見事に体現していますが、仇討ちを決めてからは俳優が変わったかのように印象をガラリと変えて見せます。

 仇討ちを決めたと同時期に源兵衛の大店で50両の紛失事件が起こり、番頭から疑いの目を向けられ、それを見かねた娘は自ら吉原に身を落とし50両を作ります。
 女将はこの父娘に対して思い入れがあることから大金を貸しながらも大晦日までは娘を大切に預かると言います。
「ただし、大晦日を過ぎたら、その時はあたしも鬼になりますよ」
 女将のセリフは落語そのままです。心を鬼にしなければ娘を店に上げられないという切実なセリフに女将の情がこもっていて、落語を聴いていても強く印象に残るセリフです。

 古典落語には令和の時代には使われなくなり、意味が通じない古いワードがいくつも出てきます。意味がわからなければ観客も笑わないので、現代語に変換したり、古い慣習などはあらかじめ説明をしたりといったケースもあります。
 それでも古典落語の中にはそのまま古い言葉を残しておくのが良いように思います。
 昔、市販薬の「コンタック600」のCMで狂言師が「くっさめ」と演じてこのワードが流行したことがありましたが、くっさめは狂言の中にだけ残っている言葉です。
 三谷幸喜が感情の機微を正確に伝えたいという理由で大河ドラマ「新選組!」でセリフを現代語で表現しました。当時は賛否両論でしたが、今では時代劇での現代語は主流になりつつあります。
 そもそもテレビ時代劇では、なんとなくの古語が使用されていましたが、落語の江戸弁もやはり伝わりづらいものになっています。
 それでも狂言の「くっさめ」のように古典芸能として古語を古語のまま残しても良いだろうという意味では、本作は昨今の時代劇作品の中では古典落語に寄せた分、現代劇とは異なる口調になっていて新鮮です。

 落語を翻案する方法はいくらもあります。舞台を現代にして「親子酒」や「猫の皿」のような物語を描くことも可能です。
 けれど、筋立てや展開をただ追っただけでは落語の翻案とはいえません。落語を落語にしているのは、登場人物の言葉のやり取りだからです。

 本作は最近のドラマ映画としてはセリフが少ないです。状況を説明するセリフが排除されているからと思います。セリフが少ない分、俳優たちのぶつかり合いが際立っています。
 それぞれの俳優が人物像を体現して、人物と人物がやり取りをする掛け合いが落語的でした。
 上方落語であれば、ボケとツッコミが丁々発止で言葉を投げ合う形になりますが、江戸落語にはツッコミの概念はないので、心地よい言葉のやり取りになります。端的かつ粋なセリフが映画の脚本に落とし込まれています。

 父親に疑いの目を向けた番頭と格之進の娘が夫婦になる結末に無理を感じる噺家もいて、改変しているケースもあります。
 私も当初、自己を犠牲にしてまで父を庇う娘がその原因となる番頭と恋仲になるだろうかと違和感がありました。

 けれど、そこは前述の「成らぬ堪忍するが堪忍」へと帰結するのではないでしょうか。
 受け入れられているから許しているだけのことで、許せないことを許すことこそが堪忍であるというこの思想は、誰でも実践できるものではありません。
 それでも本作は「罪を憎んで人を憎まず」と言わんばかりに碁盤を斬って手打ちとする物語です。

 それぞれが事情と人情があってのことであるという道理を受け入れたのだということについては、必ずしも共感しきれなかったとしても、あながち間違いではないだろうと思います。

 その意味では現代劇ならば、娘が番頭を許す明確な理由が必要だろうと思います。本作は人生を達観した侍という特殊なキャラクターでもって見せるファンタジーではないでしょうか。