在米の女性監督が自身の経験をベースに描いた恋愛映画です。
とても上品な作品で新鮮でした。
ハリウッドや日本の映画ならきっともっと過剰な演出や展開が組み込まれていたと思いますが、初恋をテーマにいわゆる「思い出補正」を根底にしている物語です。
オープニングは、バーカウンターに横並びの3人。アジア人の男女が静かに会話をしていて、女性の後ろで所在無げにしている白人男性が黙って座っているという様子を見ている客たちが3人の関係をあれこれ予想しているという、いわゆる飲み屋あるあるみたいなところから始まります。
ここから24年前の韓国に遡り、そこから3人の関係性が明かされていくサスペンス展開の妙が見事です。
24年前の韓国で12歳の主人公ノラとヘソン君は互いを意識し合う幼馴染ですが、ノラは芸術家の両親と共にカナダへ移住してしまいます。
韓国男子は19歳で成人すると兵役検査を受け、やがて21ヶ月の兵役に服します。兵役制度を施行している国はいくつもありますが、西側先進国では韓国くらいといえるかもしれません。
この間、ノラへの気持ちを募らせていたヘソンはネットでノラを探しつづけ、12年前にカナダからニューヨークへ移住していたノラがそれを見つけ、ふたりはオンラインで再会し、しばらくは良好な関係がつづきますが、仕事に集中したいという理由でノラから関係を切ります。
ふたりはそれぞれに恋愛を経験し、ノラはアメリカ人男性と結婚をします。
ノラは自身の意思や主張がはっきりした女性で、アジア人に対してまだまだ風当りの強い欧米社会で劇作家の道を切り開いていきます。これを韓国系アメリカ人のグレタ・リーがクールに体現しています。
若くして結婚した理由もグリーンカードの取得という明確な理由がありました。
ハリウッド映画なら、ノラの野心が強調されるところですが、本作では夫への愛情に嘘はなく、その関係を大切にしていることも語られます。疑心暗鬼になる夫の暴走もなく、ニューヨークにやって来たヘソンと24年振りに再会することにも夫は反対をしません。
とかく本音と建前の二元論で語られがちですが、どちらも本当ということも実際にはあります。
冒頭のバーで、いかにも所在無い様子をしていた白人男性がノラの夫なわけですから、これをいかにも情けない姿と受け止める観客がいることに対して、監督であり脚本を書いたセリーヌ・ソン女史は、そういった状況で自分の存在をしっかりアピールして二人の世界にはせず、三角関係の構図にもっていく夫は強い男だと語っています。
エンタメ映画に慣れていると「掻きまわす役ではないのか」ということが新鮮に感じられますが、現実的ということではどうなのでしょうか。男女で受け止め方が異なるのかもしれませんが、あの場に同行する夫は女性にとって、より理想的ということなのだとすると意外な展開というのが率直な感想です。
本作は三角関係の恋愛映画という説明がしっくりきません。初恋のふたりが24年振りに再会するというシチュエーションに対して、現在の配偶者のプロット的配置でいえば、現在夫婦仲が悪い状況で初恋のひとと再会するとか、夫婦仲は良いけれど初恋の相手と再会してしまったなどのように「ひと悶着」を誘発することで物語が動き出す作品が多いというか、そればかりといえます。
本作が強い印象を残すのも、実はそういった俗物性の排除にあるように思います。
本作は現在を必死に生きるノラと、12歳のまま止まっているノラに恋をしつづけるヘソンとの気持ちの隔絶が描かれています。
もし、12歳の時に離れ離れにならなかったら、12年前にオンラインで再会した時にすぐにどちらかが会いに行っていたら、二人の未来は違っていたのだろうかというヘソンの純粋さと、それは「過去の人生(パスト・ライブス)」でしかないからと割り切っていたはずのノラが、ずっとクールな姿しか見せていなかったのに本作で唯一感情を爆発させてしまうのは、自分の過去を肯定することが、ヘソンの過去への想いを全否定することになってしまうからかもしれません。
失恋とは全否定することで前に進むことだとしたら、円満失恋といった美辞麗句が一切ない本作の語り口はコロナ禍における世界規模でのパンデミックに苦しんだ経験を経て、人間関係とか生活を積み重ねる人生といったことに向き合わされたことで、本作のやや厳しい視点を強い共感でもって受け入れられたということではないでしょうか。
第96回アカデミー賞では「作品賞」と「脚本賞」という大きな部門でのノミネートに留まりましたが、2023年はいくつも賞を受賞しまくっていることがそれらを立証しています。
本作で強く印象に残ったのは、24年振りにヘソンと再会したノラが帰宅して夫に語るシーンです。そこでノラはヘソンが「いかにもな韓国人男性」だったと感想を述べます。
その生き方、考え方といった人格の主軸がいかにもな韓国人男性というやや否定的な感想は、いわゆる欧米から見た韓国という視点です。
12歳から24年間も欧米で暮らしたノラは、韓国を客観視していて、おそらく自身も欧米社会で生きるアジア人として厳しい局面をいくつも経験した上で、ヘソンに見た韓国人男感に好印象を持てなかったという自己批判は、日本の作品にはまだない視点です。
日本の作品の中には、帰国子女が日本の文化に馴染めないとか、アメリカかぶれの日本人が浮いているといった日本社会側からの異物としての視点ならいくつもありましたが、海外で暮らす日本人が海外から日本人を見て批判するといったものはまだないですし、描くのは難しいだろうと思います。
なぜなら海外に住む日本人が「そういうところ日本人だよねー」とディスったら多くの日本人観客は不快に感じるからです。
その意味では本作も韓国映画ではありません。韓国人が製作したアメリカ映画だから成立できているといえます。
また、セリーヌ・ソン監督のがノラとおなじ在米韓国人であることも大きな要因と思います。アメリカで生まれて育った韓国系アメリカ人も大勢いて、昨今のショウビズで活躍しているひとも増えてきました。
韓国系アメリカ人は家の中には韓国文化があるのでアイデンティティーに韓国はありますが、社会性などはアメリカ人なので、むしろ韓国の歴史や文化を尊重する方向での作品作りが目立ちます。そんな中で在米韓国人であるセリーヌ・ソン監督は物心ついてからアメリカに移住しているので、アメリカ社会の中のアジア人として社会性を身につけているので、母国に対しての批判性を自然と持ち合わせているように感じます。
良い思い出は思い出のまま、幸せは目の前の現実社会の中にあるという結末は、いかにもシビアではありますが、実は普遍的な人生観ではないでしょうか。