「つやのよる ある愛に関わった、女たちの物語」「円卓 こっこ、ひと夏のイマジン」などの脚本家、伊藤ちひろ初監督作品です。
面白くなりそうなまま展開して、面白くなりそうなまま幕引きとなる映画といった印象です。
もっとも興味を引くのは、主人公の未山には端的に表現するとオバケが見えるという設定です。
映像的には未山の傍らに青年がいて、その青年は周囲の人々には見えていないので、カメラ割によっていたり、いなかったりします。
1999年公開のM・ナイト・シャマラン監督作品「シックス・センス」とおなじ手法といえばそうなのですが、未山が明確なリアクションをしないことで、彼にとってはオバケを従えていることが日常なのだと気づかされ、そのことが本作のもっとも面白い要素と思います。
ここでのオバケの定義は「想い」ということで、いわゆる思念が具現化したものとなっているので、生霊も出てきます。
おなじようにオバケが見えるひとも登場して、彼らには見えているだけではなく、自身で引き受けることもできます。つまりオバケの受け渡しが可能なのです。
「憑りつく」とか「払う」といったオカルト現象に対して恐怖の演出が行われず、あくまで未山の日常風景として展開していきます。
オバケが血まみれだったり、憤怒の形相であったりするとホラーになるのですが、そのような強い悪意をもつオバケは登場しません。
誰かの「心残り」を解決する物語といえなくもないと思うのですが、解決が救いに直結していないので、達成感がなく、当然感動的にもなりません。
おそらくそれらはすべて作為的に行われているのだと思います。
登場人物が全員、感情表現が希薄です。主要キャストである坂口健太郎、市川実日子、齋藤飛鳥、浅香航大たちが、ほぼ無表情で、声のトーンも抑制的です。
唯一、子役だけが子供っぽい動きをしていますが、家族団らんのシーンも無機質なセットと相まって低い温度で展開します。
人間を学習したAIが搭載されたロボットが家族を表現しているようです。
実はこの世を生きるひとが一人もいなかったといった大オチがあれば、感想はまったく変わるかもしれませんが、大オチは主人公、未山の突然の死でした。事故死に見えなくもないのですが、その死に対して特に意味が持たされていないことが違和感になります。
登場人物たちは未山の元カノや今カノと連れ子といった未山と関係の深いひとたちなのに、彼の死の前後で大きな変化がありません。未山の死にストーリー的な必然性がないためです。
オバケになった未山がダイニングキッチンで愛するひとたちを見守っているのを、少女だけは認識できているというオカルト落ちですが、「想い」がオバケの定義という本作において、見守りつづけることに根拠は見出せますが、それは自己満足でしかないので、自身の欲望を満たすためにオバケとして別の次元に存在し続けるという結末は共感性が低いと思います。
登場人物たちがロボットのように心を見せませんし、それぞれの関係性の深さもいまひとつ実感がなく、全員がどこか達観して、周囲を突き放しているように見えてしまうので、そもそも共感できるキャラクターがいないことが、本作の大きな特徴です。
設定だけなら、没入度の高いエンタメ作品にも文芸作品にも昇華できたように思います。
オカルト作品とした場合、主観がオバケか人間のどちらにあるかは重要です。
ある意味、オバケ側から描いた作品が1990年のヒット映画「ゴースト/ニューヨークの幻」です。オバケになりながらも恋人を守りたい、幸せにしたいというラブ・ストーリーです。ホラー映画の多くは人間側で描かれます。
本作は、主人公の未山とオバケが並列の関係にあるので視点が曖昧です。さらに未山自身もオバケになってしまうので、主観が消失してしまうともいえます。
オバケという実存が確定していないオカルト現象を描く以上、オバケの力で救われる人々を描くか、オバケの心残りを解消して成仏させるといった視点が明確なプロットになっていなければ、観客の気持ちは動かないということなのではないでしょうか。