北野武監督の19本目となる長編作品です。

 1989年公開の「その男、凶暴につき」から34年目となる巨匠監督ですが、前作から6年のスパンとなりました。
 コンスタントに作品を製作していましたが、前作「アウトレイジ 最終章」公開の翌年となる2018年に北野オフィスから離脱したことで、映画製作の母体を失ったように見えたので、映画製作から離れるのではと思ったものです。
 実際、小説に本腰を入れると宣言して「純、文学」「不良」「大親分! アウトレイジな懲りない面々」と次々に小説を刊行し、ビートたけし名義で2017年に刊行された「アナログ」は2023年に映画化されました。ちなみに著作物で北野武とビートたけしをどのように使い分けているかはよくわかりません。

 そして、2019年に角川書店から刊行された戦国時代小説「首」が映画化されることになり、ついに新作始動ということになりました。ところが、その後、KADOKAWAとゴタついたとかなんとか、真偽のほどはわかりません。とはいえ映画製作においてはよくある話で、撮影だけして頓挫とか、編集して完成しているけど配給されないといったお蔵入り作品は意外と多くあります。
 但し、本作のような大作は製作費が掛かっているので、余程のことがなければペンディングにはなりません。
 昨今は劇場公開ではなく、サブスクでの配信も多くなっています。劇団ひとり監督作品の「浅草キッド」も2021年にネットフリックスでの配信公開となりました。一気に配信に傾いた理由はコロナ禍により映画館での集客力が落ちたことによるもので、配信にするぐらいならコロナが収束するまで延期すると映画会社を突っぱねたトム・クルーズのエピソードは今となっては武勇伝です。あるいは本作もKADOKAWAと北野監督との間で配信公開の話などもあったのかもしれません。

 本作は構想30年といったキャッチコピーをよく目にします。

 30年前というと「ソナチネ」が公開された頃ですが、本人のコメントによれば当時シナリオは書いていたようです。実際、テレビ番組「北野ファンクラブ」の中で戦国時代劇を撮りたいと発言していたのを覚えています。秀吉の「一夜城」のトリックなどを語っていたのでビジョンは明確にあったのではないでしょうか。

 本作の話題として「BL」という表現が使用されています。男色についてライトな表現が生まれたことに時代の変化を感じます。
 30年前の平成初期頃は、ゲイとか同性愛は笑いのネタにされていましたが、「多様性」というワードがブームになると一変し、欧米では積極的かつ肯定的に同性愛が描かれるようになりました。
 日本はまだまだ同性愛に対しては後進的なので本作は、いつもの北野作品と同様に日本よりも欧米で評価されるのではないでしょうか。

 江戸時代まで男色はある程度一般的なものでした。男娼という同性愛系の性風俗ビジネスもありました。
 といっても膨大な数が製作された春画の題材は圧倒的に男性目線の異性愛なので、マイノリティーではあったと思います。現在との違いは、マイノリティーに対しての偏見感覚が希薄だったということと思います。

 戦国武将の男色については、色々と解釈が異なると思います。本作では命を懸けた忠義と愛憎とが綯い交ぜて逸するといったような表現になっているように感じました。いわゆる性欲とは若干異なる印象です。
 BLといっても戦国武将にとって世継ぎを設けることは大命題なので、ほとんどの武将には妻や妾がいます。その意味ではバイセクシャルとなるのですが、ここのところも当時は圧倒的な男社会で、女性は男の所有物という感覚でした。特に武将となると娘は駆け引きに用いられる重要な手駒で、自由恋愛での婚姻という感覚もなければ、そもそも一夫多妻制度なので、異性愛は性欲という生理現象によるもので、男色こそが心の結びつきといった解釈も可能かもしれません。
 北野監督は「NHKは避けているところがあるが親方・殿様に対し命をかけるのは、自分としては、そういう考え方。そこを描かないで時代劇を描くのは、おかしいと」といったコメントをしています。地上波テレビの大河ドラマで「R15+指定」はあり得ませんが、2022年放送の「鎌倉殿の13人」においては、鎌倉幕府第3代征夷大将軍、源実朝が自身の性的指向について苦悩する姿が描かれましたし、それを正室にカミングアウトする展開が肯定的に表現されていました。但し、古の人も現代人も悩みはおなじというエピソードなので、本作における男色表現とはテーマが異なります。

 西島秀俊がドラマ「きのう何食べた?」に出演しているので、明智光秀とケンジが重なって見えてしまうなといったこともありますが、本作の見所は男色を描いたこと以外にもあります。

 プロットは信長の暗殺を共謀するのではなく、けしかけるというもので、出演シーンこそ少ないですが、家康の立ち位置の妙が面白いです。
 北野監督は出演をしない前提で企画を進めていたようですが、やはり出演しないと客を呼べないだろうということで秀吉を演じています。
 痩せぎすの猿というイメージの秀吉ですが、百姓出ということをことさら強調しているのも改めて新鮮です。
 これまでの秀吉像では、百姓出は立身出世の前振りとして機能していましたが、本作では根が武士ではないからこその立ち回りということで、武士への憧れは、あくまで権力への羨望で、武士という生き様や社会構造には興味がないといった様は新しい解釈ではないでしょうか。
 源氏からつづく武士の世の中を百姓出の秀吉が天下を獲ることでぶち壊すといった展開は、門外漢だからこそですし、後の朝鮮出兵や淀君への執着といった醜態も武家社会を内側からぶち壊したようにも取れて面白いです。

 誰彼構わず殺してしまえという道理は「首」というタイトルに結実します。

 また、曽呂利新左衛門や秀吉のように武士に憧れる百姓が登場するのも武士を俯瞰視することに機能しています。
 曽呂利新左衛門は落語家の祖と呼ばれる秀吉お抱えの芸人で、いわゆる道化ではなく、話芸が達者であったとされています。
 本能寺の変を描くのに曽呂利新左衛門が登場する展開は北野映画ならではと思います。また、少ないシーンながら強烈な印象を残すのはホーキング青山が演じる新興教団の教祖、光源坊です。ビートたけしをリスペクトする障害のある芸人、ホーキング青山が演じることで設定と噛み合って強いインパクトを与えます。
 これも価値観の変化のひとつで、前時代は障害者が健常でないことから疎外されることはなく、むしろ神の使いのように扱われていたという話があります。
 そもそも赤ん坊が育ちづらい時代に、皆と違うことが異常ではなく「特別」として受け止められていたのかもしれません。と、すると光源坊のような存在は決して絵空事ではない要素といえます。

 いわゆる安土桃山の戦国時代は、江戸時代ほどカースト制が確立されていませんでした。戦となれば多くの百姓が武装参加して、手柄をあげれば褒美をもらえました。後に秀吉が刀狩令を出して百姓から武器を取り上げますが、人殺しイコール儲け話みたいな混沌とした世界という見方もできるかもしれません。

 従って武士たちの生き残り合戦は、ヤクザ映画のような殺し合いや暗躍に明け暮れ、それぞれが利己的で他人の命は軽く扱われます。
 これを際立たせているのが、百姓や芸人といった市井の人々の介入です。巻き込まれたのではなく、自ら殺し合いに首を突っ込んで、自らの首を落とす様が、まさに北野映画です。

 織田信長を頂点に、立場の異なる様々な人々が交差し、最後まで武将を格好よくは見せないデスゲームのような群像劇が見事です。

 秀吉は常に浅野忠信演じる黒田官兵衛と大森南朋演じる秀吉の弟の羽柴秀長と3人で一緒にいます。時折、いかにもアドリブなやり取りがくすぐりでもあり、緊張感にもなり、これもまた北野映画ならではの独特な感覚です。

 ところで、ネット番組で北野監督が次作について言及していたそうです。次作はパロディ映画で、なにかのパロディではなく、元ネタとなる映画を作って、自らその映画のパロディ版を作って、2本同時上映するという構想とのことです。
「アウトレイジ」のようなヤクザ映画とそのパロディを通しで作ったとしたら興味深いものではあります。
 いずれにしても次作の製作に向いていることについては嬉しいかぎりです。