3、化学肥料の普及には国策が大きく影響 | 自然栽培プロジェクトのブログ

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3、化学肥料の普及には国策が大きく影響



化学肥料の功罪について考えてきましたが、現在の化学肥料が何からできているかということについて説明したいと思います。

化学肥料について調べていくと、その普及には国策が大きく影響していたことが理解されるのです。



〇窒素肥料の作り方

 化学肥料のなかで、作物を大きく育てることができるのが窒素肥料です。その窒素肥料の大部分は、アンモニアが原料です。アンモニアは大気中の窒素と水素を高圧下で反応させて作ります。

窒素は、空気中には約80%も含まれていますが、このガス状窒素を植物はそのまま吸収することができません。

空中の窒素をアンモニアの形で固定する方法がアンモニア合成です。アンモニア合成では水素が不可欠であり、水素を作るための化石燃料が必要となります。合成されたアンモニアは、窒素肥料や窒素を含む複合肥料等の原料として使われます。



窒素ガスは植物には直接吸収されないことから、戦前からドイツのハ-バ-とボッシュによって開発された窒素ガスと水素の反応によるアンモニアの合成法によって行ってきました。水素は天然ガス中に含まれる水素を利用できるので、天然ガス由来のものが一番廉価な原料といわれました。



〇現在の化学肥料の原料は工業廃棄物

 現在の化学肥料の原料が、工業廃棄物であることを知って驚ろいてしまします。その工業廃棄物の処理に手を焼いた人々は、そこから化学肥料を作ることを考え出したのです。

実は、化学肥料を製造するということは、日本の重要な国策だったのです。

それは、化学肥料は戦後日本の高度経済成長を支えた自動車産業や石油化学産業と密接に結びついていた存在であったからです。

化学肥料の製造は、戦前から作られており、特に硫安の製造は、戦前の化学工業の花形でありました。ただ、高温・高圧で窒素と水素を圧縮してアンモニアを生成するこの時代の製造方法では、コストが高くて裕福な農家でなければ化学肥料は買えるものではありませんでした。



敗戦後、最低の国力で新たな国際競争の場に立たされた日本には、輸出するものが少なく外貨を稼ぐ手段が不足していました。

自動車はすでに国内で生産をしていましたが、アメリカやヨーロッパの車には、あらゆる面で及びませんでした。日本車は、ボディの鉄板も粗雑で、数年乗ると穴があいたりしてボロボロになってしまいます。当時アメリカで目にした日本の車は見るからに貧相で、潮風があたる地域などでは、ひとたまりもないといった状況でした。それが、戦後間もない日本の技術の水準であったのです。

しかし、当時の日本人は、勤勉でまじめで熱心に、国の威信を背負って取り組みました。そしてついに、ぎりぎりまで薄く、さらに錆びない鉄板を考案したのです。

溶鉱炉から流れてくる薄い鉄板を重油の中から液体として抽出した硫酸アンモニウムで洗浄して固めます。溶鉱炉から出てくる瞬間に硫酸アンモニウムで洗浄しながら固めれば、硫酸と酸素が反発して酸素が鉄に入り込めなくなるのです。硫酸アンモニウムで濡れた鉄板はロールで巻かれ、自動車のボディとなるべく、出荷されていきます。そのさきでカットされ、プレスされ、シンナーで洗浄して塗装されるので、工程のどこにも酸素に触れる場面ができないのです。

このことによって日本の車は、鉄板が薄く、軽く、錆びない、つまり燃費がよくて耐久生のある車となって、高い競争力をつけることになりました。



〇硫酸アンモニウム液の処理

ここで問題となるのが、散布された硫酸アンモニウム液の処理です。不揮発性の硫酸と結合しているため、アンモニア単体とちがい、まったく蒸発しないのです。それで、石灰を使って固形化するのです。

農業の肥料として使う硫安は、化学肥料名が「硫酸アンモニア」であり、硫酸アンモ二ウムという物質です。ここで硫安と硫酸アンモニウム液が、農業と自動車業界が結びつけることになったのです。



●自動車産業で排出された硫酸アンモニウムが農業で肥料としてつかえるなら、化学肥料が低コストでできる。

●低コストでできる化学肥料は、国際的に競争できる輸出品の目玉とな 

 る。


●鉄鋼業界・自動車業界は、産業廃棄物を処理するコストがかからない

 ばかりか、農家に売って利益にすることができる。



  こんなうまい話があるでしょうか。まさに妙案中の妙案。一石二鳥ならぬ一石三鳥。薄く、軽く、錆びない鉄板をつくるという発想から生まれた奇策ともいうべきものです。

そして、この一石三鳥のアイデアは現実になったのです。自動車産業の産業廃棄物は、安い窒素肥料に生まれ変わって農業で使われるようになりました。産業廃棄物はコストとなるどころか、農家がカネをだして買ってくれる商品となって、鉄鋼・自動車業界を潤したのです。

言い換えれば、日本の戦後の経済発展に、化学肥料がひと役買っていたわけです。鉄鋼会社やセメント会社には、今も肥料をつくる部門があるのです。



この方法はまたたく間に広がり、化学工業の発展とともに、ほかの化学産業で副産物として出た硫酸アンモニウム(副生硫安、回収硫安などとよばれる)も、また農業に投入されるようになりました。そのままでは「自動車の排気ガス」のような存在が、次々と窒素肥料として生まれ変わったのです。

 『日本硫安工業史』によれば、1954年(昭和29年)にはすでに硫安の生産は290万トンに達し、輸出が必要となりました。とくに合成繊維の原料用アンモニアは、大量の硫安を生み出しました。硫安生成を抑える技術がさまざまに開発されている現在でも、ナイロンなどの原料となるカプロラクタム を1トンつくるのに、回収硫安が4トンも出るのです。これを産業廃棄物として処理するとしたらたいへんなコストがかかることになるのです。

日本経済は、敗戦の混乱の中から世界が驚くような勢いで発展しました。石油化学を使ったさまざまな産業が発展した影には、化学肥料はなくてはならない存在であったのです。農家に化学肥料を使ってもらわなければ困る人々や業界がたくさんあったということになるのです。



また、農家にとっても化学肥料を使用しなければいけない理由もありました。農薬や化学肥料の歴史は意外と浅く、昭和35年以降から一般的に使われるようになるのです。経済成長に伴い、若い農家の働き手たちは、農地を残して都会へ働きに行くようになりました。その働き手を失った田畑を支えたのが化学肥料であったのです。

化学肥料は、その安定性と大量生産性、値段が安いことなどから瞬く間に日本農業に浸透し、数十年の間日本の農業を支えてきたのです。戦後の厳しい食料事情や高度経済成長期の人口急増などの時期を支えたのは、紛れもなく化学肥料の功績と言えるわけです。



 化学肥料の功罪とその次代背景について述べてきました。日本経済にとって、現在でも自動車産業や繊維産業は重要な役割を担っている産業です。

 それに関わる化学肥料に関しては、今後に大きな課題を含んでいることについて先に述べてきました。私たちは、そうした化学肥料と今後どのように付き合っていけばよいのかを考えなくてはいけない時期に来ているのではないでしょうか。

人の健康を考えた時、自然栽培を推進している私たちとしては、その転換期を迎えているのではないかと思うのです。