漫画ドラゴン桜の12巻のストーリーを紹介しながら、役立つ勉強法などの情報を伝えていきます。
「東大生の考え方」
私のことを典型的な私立文系頭と言って、学歴で差別したと怒る井野先生。
そのくせ桜木先生を中卒の癖にとバカにした発言を行います。
それこそが差別発言でしょう。
なぜ井野先生の考え方では、生徒を東大へ合格させられないか説明すると言います。
まずはじめに、東大へ合格者を出すためには、東大に入る人は、そもそもどういう考え方をするかを理解しておかなければなりません。
ちょっとした心理テストを行ってみましょう。
目の前に川があります。
川幅は約20m。
流れは遅く、深さは最大で腰のやや下ぐらいまで。
しかし上流にも下流にも橋は見当たらない。
さて、さああなたならどうしますか?。
井野先生の答えは次の通り。
橋はないけど渡らないといけないわけです。
だから、濡れるのは嫌だけど、靴を脱いで川の中を歩いて渡ります。
高原先生も宮村先生も同じ意見のようです。
そうする理由を桜木先生はこう判断します。
川を渡る術、例えば橋を探すのが面倒だからです。
次に同じ問題を東大生にした場合、どのような回答が返ってくると思いますか。
その答えは、自分だったら濡れずに楽に渡れる方法を探すというもの。
橋は無くても渡し船があるかもしれません。
まずは民家を探して、そこに住む人にどうやって川を渡っているのかを尋ねることができます。
そんなあるかないか分からないものを探し回すなんて面倒臭いという井野先生。
ところが、東大へ行くやつらの発想は違うといいます。
たとえ遠回りに思えても、まずは情報を集めるのです。
東大生たちは、濡れるリスクを冒して川に入って、自力で渡る方が面倒くさいと考えるのです。
「そんなの時間の無駄」という井野先生。
しかし東大生の考え方は、こうだといいます。
頭とは、自分の力を極力使わず、楽をするために働かせせるものだ。
この話の中で、東大型も私大型にも共通する事項がりますが、お分かりですか?
そのキーワードは「面倒臭い」。
つまり、どんな人であろうと、面倒くさいことは嫌い、人間はできるだけ楽をしたい生き物なのです。
しかし基点が一緒でも、そこからの発想は違ってくるわけ。
一方は、橋や船を探して遠回りするのは面倒臭い。
もう一方は、川に入って自力で渡るのは面倒臭い。
この両者の違いは、情報の大切さを認識しているかどうかです。
先ほど井野先生は、指導方針を自分で考えると言いました。
これは色々と指導法を、調べたりするのは面倒臭いと考えるからです。
ところがそう言うケースで、東大を出た人たちは異なるのです。
彼らは、自分で新たに考えることが面倒臭いのです。
だから、人がすでに考えていて効果のあるものを探し、それを利用した方が楽で効果的だと考えるのです。
ここで高原先生が意見を述べます。
学校における人格教育という観点からすれば、問題があるのではないのでしょうか。
そもそも、面倒臭いとの発想を肯定してしまうことには疑問を感じるそうです。
実は人間の根本的性質をそもそも教育で、矯正しようなどというのは、思い上がりも甚だしいのです。
元来人間はすべて面倒臭がり屋だからこそ、創意工夫するのです。
何とか楽できないか。
人類史上の画期的発明や、科学技術の発達は、すべてここから生まれているのです。
だから東大合格者が、真面目な勉強好きだと思うのは間違いなのです。
彼らは究極の面倒臭がりの楽しみたがり屋なのです。
実は受験勉強も面倒臭くてしたくないのです。
でも大学には入りたいから、つまらない受験勉強をいかに手をぬいて突破するかを考えるのです。
つまり、もとからある優れたものを利用する。
そのためには調べることが大切といえるのです。
いいか悪いかの判断は、昔からずっと生き残っているもので、それは優れたものに違いないと考えます。
それを元に型を作り、できた型に課題を入れていきます。
そのようにして、次々とあてはめて処理していくのです。
そして数をこなしていくうちに、自分に合ったやり方、つまりオリジナル溢れたものへと進化させていくのです。
こうやって「自分流のルール」作っていくのです。
それなのに、自分自身の頭で考えるといって、何の型もないところからスタートしようとしているのです。
だから全然先に進まずに、時間だけが無駄に食って形がいつまで経ったところで見えてこないのです。
つまり、自分で考えるということは、何も考えていないということなのです。
これが井野先生が、いくら自分で考えていてもダメだった原因だったのです。