ライズ・オクトーバー・ライズ  [10] | Kのガレージ

Kのガレージ

“書く”ということを続けていたい。
生きたという“あかし”を残したい。

 入学式の前日の夜。タケルは部屋の灯りを消して布団をかぶると、真っ暗な部屋の天井を見つめた。そして、都内の私立高校の受験に落ちてから今日までのことを振り返った。

 私立に落ちた時点では絶望しかなかった。三年間ずっといじめられ続けていたことを両親に告白したとき、自分の中で何かが激しく弾け飛ぶような感覚があった。パニックになって泣き叫んで暴れたあとは、すべてがどうでもよくなった。

 ——ここへ逃げ出したい。

 実のところ、森若県の県立高校案内を見ながら考えたことは、ただそれだけだった。東京からいなくなることができるのなら、正直どこでもよかった。

 自分が前に進むためのサポートをしてくれた両親には感謝している。和也は都立高校への進学を無理強いしたりはせず、森若市内の高校を受験する手はずを整えてくれた。恵は無理に学校に行かせようとしなかったばかりか、卒業式さえ出なかった自分を静かに見守ってくれた。

 絶望しかない状態から、少しずつ顔を上げて前に進むことができるようになってきた頃には、逃げ出したいという気持ちはいつしか、森若へ行きたいという希望に変わっていった。

 無事に森若高校への進学が決まって、始まった森若での新しい生活。駅前で出くわした森若太鼓の一団、賢三の保存会の練習会、ダンス部への勧誘……この短期間でタケルが経験したことが、気持ちをどんどん新しい日々へと駆り立てている。見たこともない新しい扉がいくつも目の前に現れて、きっとどの扉を開けても、見たことのない景色が広がっているに違いない、そんな気持ちでいる。

 ——変わりたい。

 真っ暗な部屋の天井を見つめながら、タケルはそう思った。中学校三年間で、タケルはいろんな感情を失ってしまって、あらゆる思考がマイナスな方向やネガティブな側面にばかり向かうようになってしまっていた。そんな自分を森若の地は変えてくれるかもしれない。

 「変わりたい……」

 そうつぶやいてタケルは瞼を閉じた。

 

 冬の間、雪捨て場として使われていた川べりの田畑には、もう雪は残っていない。雪解け水がところどころに小さな池を作っていて、それに朝日が反射してキラキラと白く輝いている。もしかしたら表面は薄く氷が張っているんじゃないかと思うほど、四月初旬の森若の朝はまだまだ空気が冷たい。茂の家も朝晩は平然と暖房が稼働している。三月末に出発した東京には、何本か満開の桜もあったはずなのに、森若の桜はまだまだつぼみのままだ。

 入学式には、茂と志乃が父兄として参加した。真新しい金色のボタンが付いた黒い学ラン姿のタケルを目の当たりにして、よちよち歩きだった孫がここまで立派に成長したということに、茂も志乃もひとしおの感慨をおぼえた。

 東京で生まれ育った孫が、どうして東京ではなく森若の高校に進学することになったのか、その理由はもちろん二人ともよくわかっている。けれども二人は、敢えてそのことにはいっさい触れずに、タケルを自分たちのもとへと迎え入れた。そして少なくとも高校三年間は面倒をみることに決めている。

 単純に一人孫が可愛くて仕方がないから、愛する孫が幸せな日々を送れるように、その気持ちだけでタケルを迎え入れたけれど、実際に自分たちの生活を考えても、それはまったく苦ではなかった。茂は十数年前に、自分が所有していた数ヘクタールの田んぼを新興住宅地の開発のために売り払っている。柔和な性格だけれど決断力は鋭い茂は、土地開発業者から田んぼの売却の話を持ちかけられたとき、これから米農家は苦労ばかりで大変な時代になるだろう、常々そう考えていたこともあって、茂の家の西側から北側へ国道沿いに広がる広大な田んぼを躊躇なく手放した。それで得た対価は大きかったから、今はりんごを中心にいくつかの野菜を栽培する、さほど忙しくはない専業農家として生活することができている。志乃は茂の農作業を手伝いながら、編み物をしたり漬物をつけたりと悠々自適な生活を送っている。そんな二人だから、タケルの衣食住を工面するのも難儀ではない。

 

 ダンス部の見学をしてから帰ると茂と志乃に伝えて、校門で記念撮影を済ませたタケルは体育館の下のスペースへと向かった。賢三の練習会で出会った美咲という女子高生が言っていた、ダンス部が活動しているという場所だ。さっきまで体育館で入学式が行われていたから、もう大体の場所は把握できている。校門で茂と志乃に手を振ると、タケルは踵を返して校舎のほうへ向かった。校門からグラウンドを時計回りに歩いた左手に体育館がある。その下は柔道や剣道をする格技場になっている。

 ——下のスペース?

 格技場以外に表立ってスペースは見当たらない。いったいどこなんだろう。そう思いながら体育館の角を左に折れると、どこかから音楽が聴こえてきた。ラジカセか何かで鳴らしている音だ。そしてその音楽に合わせてパン、パン、という手拍子も聞こえてくる。気がついたら体育館の影というか裏手というか、とにかく地味で目につかない場所まで来てしまっていた。近くにはこぢんまりとした西門が見える。ここはもう学校の敷地の端の端だ。

 左手に太くて四角いコンクリートの柱が何本も見える。二階建ての二階にあたる体育館を支えるコンクリートの柱だ。音楽はその柱に囲まれた薄暗い場所から聞こえてくる。体育館の床下が屋根代わりの、コンクリートの柱で囲まれた、雨だけは凌げるけれど吹きっ晒しの場所。まさに体育館の下のスペースから、パン、パン、という手拍子に合わせて、

 「ワン、ツー、スリー、フォー!」

 活きのいい女子高生の掛け声が聞こえてきた。声の主は美咲だった。