何曲かをローテーションで繰り返し演舞して、一時間ほどで練習会は終わった。
途中、身振り手振りのアドバイスを数回送ることはあったけれど、賢三は笑顔のまま黙って練習を見守っているだけで、踊ったり太鼓を叩いたりすることはしなかった。それでも子どもたちは賢三のアドバイスに直立不動の姿勢で耳を傾けて、練習の最後には全員で声を揃えて「ありがとうございました!」と挨拶をしていたから、やっぱりこの地域において、とりわけ森若太鼓の分野においては、賢三は大きな存在なのだということを、タケルが理解するのには充分な一時間だった。
「立ったまま、見でらったな!座れば、えがったんい」
座布団を指差しながら、賢三がタケルのもとに寄って来て話しかけた。タケルの中で賢三はもうすっかり“凄い人”になっていたから、そんな人から「座って見てればよかったのに」と気を遣われてタケルは恐縮した。
「あっ……いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
「ずっと、目ぇ、こったにして、見でらったよ!」両眼を大きく見開いて、さらにその前で両手のひらを広げるジェスチャーを交えながら、茂がおどけて笑った。それを見て賢三も笑った。二人が笑うのが止まったタイミングでタケルが言った。
「あの……僕、森若太鼓、やってみたいんですけど……」
「おお、そうが!いいよいいよ、やってみれ!」賢三が嬉しそうに即応した。
「じゃっじゃ!タゲル、よがったなー!」茂も驚きながら喜んだ。
「おう、美咲。こっつさ来ぉ」
賢三が子どもたちの輪に向かって声をかけた。首から下げた手ぬぐいで汗を拭きながら、呼ばれた美咲という女子高生がやって来た。肩ぐらいまでの黒髪をポニーテールでまとめている。スポーティーで健康的な女子高生、一目見てタケルはそう思った。
「これ、タゲル君。今度、森若高校さ入るんだど」賢三がタケルを紹介した。
「ああ、そうなんだ!初めまして。私、森若高校の、今度三年生!」明るくハキハキした自己紹介だった。そんなふうに女子から話しかけられたことなんてなかったから、タケルはどういう態度でいればいいのかわからなかった。
「森若太鼓やりでえっつうがら、ダンス部さ、へぇるんだんい?」森若太鼓をやりたいということはダンス部に入るんだろう、まるで決定事項のように、賢三はタケルと美咲を交互に見ながらそう言った。
「ああー、そうね!ダンス部入って!」
「……」
美咲は腑に落ちたようにそう言ったけれど、タケルはいよいよ意味がわからなくなって、黙ってしまった。気付いた美咲が教えてくれた。
「森若高校のダンス部がね、何年も前からここの保存会と協力して、森若太鼓の伝承活動をしてるの。今日は……」美咲が子どもたちのほうへ振り返って、首を伸ばして誰かを探す仕草をした。そのとき、着ていた黒のロングTシャツの背中に「Moriwaka Dance Club」の文字がプリントされているのが見えた。
「あー、何人か帰っちゃったし、来てない部員もいるけど、この練習会も、ダンス部が手伝ってるんだ」
腰に手を当てて、美咲が淀みなくそう説明した。そして笑顔でタケルを勧誘した。
「なかなか部員集まらなくて困ってるから、キミ、入ってくれたら、嬉しいなぁ!」
真っ直ぐな眼差しの、混じりっ気のない笑顔だった。
「えっ……」
そんな笑顔を向けられたことなんて一度もなかったから、タケルは言葉が出なかった。ダンスなんてやったこともない。見たことも、聞いたこともない。どんなものなのか、そのイメージすら湧いてこない。それでも、女子から話しかけてもらえて、しかも何かに誘ってもらえたということは、タケルにとっては経験したことのない画期的な出来事だった。戸惑いよりも喜びのほうが圧倒的に優った。
「あっ……はい、入ります、ダンス部」
「ホントに!?嬉しい!ありがとう!いつも体育館の下のスペースでやってるから、そこに来て。よろしくね!」
じゃあね、待ってるね、そう言いながら手を振って美咲は去って行った。気風の良さそうな快活な女子高生だった。タケルは呆気に取られたまま美咲を見送ってから、自分がダンス部に入ることになったということをやっと理解した。
——ということは……。
あの哲太という少年が言っていたことは本当だったんだ。森若高校のダンス部が森若太鼓をやっている。美咲は継承活動をしていると言っていた。自分もその仲間になるのだろうか——?
ハッとして、タケルは大広間を見渡した。子どもたちは二、三人しか残っていなくて、太鼓や笛もきれいに片付けられたあとだった。美咲も、そして哲太という少年の姿もそこにはなかった。練習でも哲太の姿は見なかったから、きっと今日は来ていないのだろう。賢三の孫だし、なにしろこれからはご近所になるんだから、そのうちまた会えるだろうけれど。
週明けに、いよいよ森若高校の入学式がある。タケルは入学式が終わったあとにでも早速、体育館の下のスペースとやらへ行ってみようと思った。
大広間の隅っこで、茂と賢三は座布団に腰を降ろして世間話を続けていた。最後になった小学生の男の子二人が「賢三さん、さようなら!」と口を揃えて挨拶した。「おう、おう」賢三が笑顔で手を振った。そしてタケルに言った。
「明日、うぢさ来れば、太鼓叩げっから、こぉ」
「えっ、本当ですか?」
「んだ。小屋さ太鼓あっがら、教えであげるがら」
「おじいちゃん、明日賢三さんちに太鼓叩きに行ってもいい?」
「おお、行ってこ、行ってこ!」
賢三は、一人の少年が森若太鼓に興味を持ってくれたことに、茂は、可愛い孫が自分の郷土の伝統芸能に興味を持ってくれたことに、それぞれが喜んだ。
夕日が落ちた田舎道は、古びた街頭がぼんやりと照らすだけで、東京とは比べ物にならないほど暗かった。小山の斜面のほうからひんやりとした空気が降りてくるのがわかった。どこかで薪を燃やしているような匂いがする。遠くの県道を走る車の音がかすかに聞こえてくる以外、辺りはやけに静かだ。その全部が、不思議とタケルの気持ちをワクワクさせた。